緑陰随筆特集

今も続く鹿児島県のダイオキシン汚染
鹿児島大学大学院医歯学総合研究科 神経解剖学       口岩  聡
鹿児島純心女子大学大学院人間科学研究科 心理臨床学  口岩 俊子


 私たちがダイオキシン脳影響の研究を開始したのは2001年でしたが,その頃にはすでに「環境ホルモン」という言葉が世間に知れ渡っていました。その中でも「ダイオキシン類による環境汚染」は報道をにぎわす機会が多く,国民の最大関心事のひとつでした。ダイオキシン類の毒性については発ガン性や催奇形性などさまざまなものが報告されていましたが,当時,なぜか中枢神経毒性の存在は否定的に扱われていました。母乳による乳児汚染についても,厚生省(当時)は,「母乳を介して母体から乳児へ大量のダイオキシン類が移動する」(図1:新聞記事を参照)という事実を認めていたにもかかわらず,「健康影響は無視できる」とし,母乳保育を推奨しました。「疑わしきは罰する」という原則にたたねばならないはずの生活安全行政による事実上の母乳安全宣言でした。母乳に含まれるダイオキシン類の危険性を指摘することによって,妊婦に必要以上の不安を与えないための判断であったと推察できます。ダイオキシン類の発生源を断つことにより人体汚染を将来的に軽減しようとする当時の方針は,長期的対策としては最善のものであったに違いありません。
 しかし,当時の知識であっても,胎児/乳児期におけるダイオキシン類摂取が脳に重大な影響を与えることは推察できました。現に私たちの研究グループの他にも,ダイオキシン類の中枢毒性を研究テーマに掲げたグループは世界的にはいくつも存在していました。2002年のバルセロナで行われたダイオキシン国際学会では,私たちと同じ視線でダイオキシン脳障害を捉える十数グループの研究報告があり,私たちはその数と豊富な研究データに驚かされました。その頃,私たちは,ダイオキシン脳障害の存在を示す研究報告書を厚生省に提出していましたが,私たちの研究データは委員会の一部のメンバーには信じてもらえませんでした。それから1〜2年,我が国でもダイオキシン脳障害に関する研究が多数報告されるようになり,環境ホルモン学会の研究者間ではダイオキシン脳障害の存在が広く認識されるに至りました。
 私たちが研究を開始してから3年経過した2004年頃には,ダイオキシン類の環境放出が著しく抑制されるようになりました。それに伴いダイオキシン報道も急激にその数が減少していきました。国民は,あたかもダイオキシン汚染が終息したかのような印象を抱き初め,一部には,「ダイオキシンの毒性は取るに足らない」とする論評も見られるようになりました。「ダイオキシン類は人類最悪の環境毒だ」と言われながらも,明瞭なダイオキシン公害病の報告はなされることはなく,そのような論調が広く受け入れられ,ダイオキシンは国民の関心から外れていったのだと思います。
図 1
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 しかし,現在でも,ダイオキシン汚染は終わったわけではありません。ダイオキシン類は自然界では非分解性であるので,その放出が厳しく抑制されている現在でも,環境中(特に海底)に蓄積されたダイオキシン類量はそれほど減少しているわけではありません。そのため,現在でも,無視できない量のダイオキシン類が,食物連鎖を介して人の体内に取り込まれ続けています。人体におけるダイオキシン類の半減期は7年半とも11年とも言われ,年齢を重ねるにつれてダイオキシンの体内蓄積量は増加していきます。そしてダイオキシン類は,人体を半永久的に蝕み続けます。胎盤・母乳を介して母親から胎児・乳児へ,世代を越えて汚染が継続していきます。私たち大人はそのことをしっかりと認識し,ダイオキシンの子どもの脳への影響を最小限に食い止める努力をしなければなりません。新聞記事(図1)では,「ダイオキシン健康影響が1歳児では確認できなかった」と記載されていますが,ダイオキシン脳障害が発現するのは思春期以降のことです。
 2つのグラフ(図2)は鹿児島県の海域の底質内(海底の堆積物内)に含まれるダイオキシン量を示したものです。左は平成12年(2000年)の調査,右のグラフは平成22年(2010年)の調査です。この十数年間,我が国では環境中へのダイオキシン類放出は厳しく抑制されてきました。しかし,鹿児島県の調査は,海の汚染は10年間で大きく変化していないことを示しています。県の担当者は,私たちの指摘に対し,「環境への新たなダイオキシン放出は少ないが,地上のダイオキシンが雨水の流れに従って海域に運ばれるなどして蓄積されている」という認識を示しました。しかし,鹿児島湾のダイオキシンが一向に減っていないことは県民に明確に伝えられてはいません。私たちは,10年経過してもダイオキシンの分解がいっこうに進んでいないことに警鐘を鳴らしたいと思います。



図 2 この2つのグラフは鹿児島県の海域から採取した底質(海底の泥)の中から検出されたダイオキシン類の量を示しています。同一地名であっても泥を採取した場所が同じであるとは限りませんので単純に両者を比較することはできませんが(必ずしも経年変化を示すものではありません),底質中のダイオキシン類はこの10年で減少したのではなく むしろ増加した,という印象を受けます。ダイオキシンの大気中濃度および環境水中濃度は,新たな放出が抑制されれば低下します。しかし,海底のダイオキシン類は今でも減ってはいないと推察されます。


 ダイオキシンを含んだ底質に生きるプランクトンがダイオキシンを取り込み,それを小型魚が食べ,大型魚がさらにそれを食べ,次に私たち人間がダイオキシンを蓄積した魚を食べます(ダイオキシンは約98%が食事から摂取されています)。食物連鎖はこれでは終わらず,次は,赤ちゃんが母親の身体に蓄えられたダイオキシンを母乳と共に一気に取り込みます。母乳に含まれるダイオキシン類の量は現在では著しく減少しましたが,それでも新生児は一日許容摂取量をはるかに超えた量のダイオキシンを母乳から摂取しています。半年間の哺乳でお母さんの身体はだいぶきれいになるという研究報告があります(図3:研究報告を参照)。母乳に含まれるダイオキシンの脳影響は,摂取した乳児期においてすぐに現れるのではなく,思春期またはそれ以降に発現すると考えられています。そのため,母乳ダイオキシンと脳障害の関連性は見えにくくなっています。



図 3 このグラフは出産前と出産後の母親の血中PCB(ポリ塩化ビフェニール:環境ホルモンの一種)の濃度変化を調べたものです。分娩前の母親の血中PCB濃度はほぼ一定ですが,分娩後の数ヶ月間で血中PCB濃度が急激に減少したことが示されています。母乳中に排泄されたと推察できます。環境中のPCB類にはコプラナーPCBなどのダイオキシン類が含まれます。(Yakushiji et al., 1978: Arch. Environm. Contam. Toxicol., 7: 493-504からの引用です。)


終わりに
 赤ちゃんにとっても母親にとっても母乳が大切であることは論を待ちません。WHO(世界保健機関)も母乳を推奨しています。矛盾するかも知れませんが,脳科学者である私たちも,母乳の大切さを考えればダイオキシン汚染などは取るに足らないと信じています。母乳を絶つのではなく,他の方法で子どものダイオキシン摂取量を減らす工夫をすべきです。政府もダイオキシンの摂取量を減らす精力的な努力を続けてきました。母乳中のダイオキシン量が著しく減少したことがそのことを示しています。



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