私は昭和46年(1971年)3月医師会事務局職員に採用された。当時の医師会館は,前年の12月に落成したばかりの真新しい会館だった。
玄関を入ると正面が中央事務室,その右側が成人病センター,左側が准看護婦学校と高等看護学院(この年4月開校)の教務室だった。玄関前のホールは現在よりもっと広く,明るかった。
その後何度か増改築が行われ,別館も建設され,現在の会館となった。
昭和46年当時の会長は,松村吉之先生。副会長は新進気鋭の横小路喜代嗣先生。理事は,市来健史・鵜木信夫・久留克己・沖野秀一郎・鮫島耕一郎・永吉 浩・松岡克己・溝口親男・児玉清章先生。錚々たる方々ばかりで,理事の平均年齢は43歳であった。
監事は,沖野森起・青木 正先生。
顧問は,樋渡吉治先生(元県医師会長代理・市学校医会初代会長)・佐々木武男先生(新制医師会直前の県市医会長)・広瀬平治先生(第2代会長)・島本 保先生(第3代会長)。参与に青山恵真先生(県議)がおられた。
顧問の先生方も皆さんお元気で,講演会,刀圭会,総会等々に矍鑠として出席されていた。
広瀬平治先生は,鹿児島市外科整形外科医会の会長をされていて,医会や講演会の資料準備のため西千石町の広瀬病院で何度か打合せをさせていただいた。先生の純粋な鹿児島弁が今も耳に残っている。
島本 保先生には,いろいろなことを教えていただいた。
昭和47年には定款検討委員会が設置され,島本先生が委員長に就任された。先生は,定款改正の経緯や勘所といったようなことを熱心に話された。
新制医師会設立当初の全国同じようなサンプル定款から,鹿児島市医師会独自の定款へ改正されていったのであるが,これを主導されたのが広瀬会長時代の島本先生(理事)であることなどを伺った。
鹿児島市医師会30年史編纂にあたっても,先生は新制医師会設立直後の医師会の事情や裏話をいろいろ話してくださった。
先生は,弁も筆も立つという方で,鹿児島市医報を創刊され,会長自ら毎号論説を執筆されていた。これらの論説を読むと,九州首市医師会の設置は先生の提唱によるものであったし,共同利用施設としての医師会病院の必要性なども早くから説かれていた。
先生は端正なご容貌で哲学者のような雰囲気があったが,一方凄い情熱家で,総会などでは独特の少し鼻にかかったような高い声で熱弁をふるわれていたのを思い出します。
さて,昭和46年7月(今から42年前の夏)には,日本医師会の歴史に残る空前絶後ともいうべき出来事があった。いわゆる保険医総辞退である。
日本医師会(武見太郎会長)は,厚生省の健保法改正案,中医協に提出した診療報酬体系適正化の「審議用メモ」に反発,厚生行政への非協力を決定。
4月14日,日医は,健保法近代化促進全国医師大会を開催,保険医総辞退を決議。
5月1日,県医師会臨時代議員会で保険医総辞退を決議。
5月4日,健保法近代化促進鹿児島市医師大会開催。全会員が保険医登録抹消請求書を5月15日までに提出することを決議。
5月31日,全国の医師会が一斉に保険医辞退届を県に提出。1カ月経過後に辞退届が発効することとなった。
7月1日保険医総辞退が発効した。これより保険診療は不可となり,全国的に大問題となった。
その後厚生省では事態収拾を図るべく斎藤厚生大臣が3回にわたりNHKラジオで武見会長と会談。
7月28日,佐藤首相,斎藤厚生大臣が武見会長と会談。日医が要望した12項目について合意。
7月31日,日本医師会は保険医総辞退解除を決定。全国の医師会は保険医再登録の手続きを開始した。
8月1日保険診療再開。
こうして1カ月続いた保険医総辞退は解決したが,総辞退に参加しなかった8医療機関15人の会員に対して裁定委員会が開かれ,医師会の秩序・団結を乱したとして15人全員に戒告処分が行われた。
一方この年には,たいへん喜ばしいこともあった。鹿児島市医師会の数々の地域医療活動が認められ「日本医師会最高優功賞」を受賞したことである。
この賞は,最近では権威が薄れたような感があるが,当時はたいへん権威のある名誉な賞であった。
表彰は,11月1日熊本郵便貯金会館で開催された日本医師会設立記念医学大会の席上で行われた。当医師会からは会長以下全理事が出席した。
敬愛する武見会長から表彰を受けられる松村会長は,緊張されていたのか,賞状を受けられるとき,武見会長より先に手を出され,タイミングが少しずれた。
その夜熊本の料亭で開かれた宴席での松村会長のご機嫌,喜びのご様子は,たいへんなものだった。「賞を手にしたときは,涙の滲む思いがした」と言われた。
喜びにあふれ,満足そうに笑っておられた松村会長のお顔を今でも鮮明に覚えている。このときのことは,かつて当医報に「松村会長と事務局」と題して書いた。
私が医師会に初出勤したのは昭和46年3月26日で,その日はちょうど理事会の日であった。
理事会終了後,退任理事(石守金良先生),新任理事(溝口親男先生・児玉清章先生)の役員による歓送迎会が天文館の「千代」で行われた。これが事務局職員として私が出席した第1回の理事会である。
その後平成18年3月医師会事務局長を最後として退職するまでの35年間,欠かさず理事会に出席させていただいた。
理事会は月に3回開かれる。時々臨時理事会が加わるので年に40回くらいの開催となる。35年間で1,400回出席。この間の全ての理事会の議案書・議事録等の作成に関わってきた。
仕えた会長は,松村会長・尾辻会長・横小路会長・久留会長・沖野会長代行・太原会長・松岡会長・海江田会長・林会長。
各会長時代にさまざまな事業があり,出来事があった。筆舌に尽くし難い事件,難題もあった。
現医師会館が間もなく解体され新会館建設が始まろうとしているとき,会館とともに長年過ごした日々を思うことである。

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