緑陰随筆特集

与謝野 寛,与謝野 晶子と加治木について
南区・谷山支部
(野上病院)     大山  満
 
T. はじめに
 与謝野 寛と与謝野 晶子は明治,大正の日本歌壇において浪漫主義を開花させた歌人である。寛の詩技の練達は晶子に劣らず,そして短歌革新者としての位置は近代詩史上,動かし得ないものがある。また晶子は日本和歌史上,和泉式部以来の情熱詩人であり女流歌人としては古今を通じて,おそらく五指のうちに入る存在である。この二人が加治木と深い関係をもっている事実を後世に伝えるため性応寺の“たぶ”の木の近くに歌碑が建設されて,はや30年を経過した。今回は寛,晶子の歌と共に鉄幹の業績を記してみたい。

U. 寛と晶子の加治木の歌
 “わが良人は小学時代を鹿児島と加治木とに送りしかば第二の故郷として四十幾年のあいだ,しばしば夢にも見て如何で身のいとまあらば再び彼國を訪ねんと常に言えり。”
(霧島の歌の初より晶子)

与謝野 寛の歌
  はろばろと薩摩まで行くなつかしき人あるがため山あるがため
  わが父が加治木に住みし六む十そ路にも年近づきて加治木には来ぬ
  加治木には来るにあらず帰るなり父と住みける思い出のため
  わが父の名を知る人に逢うことは兄弟のことなつかしきかな

 予が十歳にて此寺を去る数月前に付近の山中より移植した“たぶ”の若木の長たけ二尺ばかりなりしが今に在し繁茂するを見る。

  わが手もて植ゑし二尺の“たぶ”の木も年経て訪へば三丈の幹
  見上げつつ夢かぞと思ふをさなくて加治木の寺に植ゑし“たぶ”の木
  をさなくて紙鉄砲をつくりたる金きん竹ちくいまは杖に伐らまし
  鹿児島に別れんとする寂しさは故郷を立つ心なるかな

与謝野 晶子の歌
  加治木なる五つの峰の波型の女めくこそあわれなりけり
  裾山にさくら島をば加えたる遠おち方かた見えて雲なかに置く
  鹿児島へ夕日を追いて行くように車やるなり加治木の峠

V. 与謝野 寛の業績
 与謝野 寛は1873年(明治6)2月26日,現在の京都市左京区岡崎町に生まれた。当時の岡崎村にあった西本願寺支院の願成寺の住職,与謝野礼れい厳ごんの四男で本名を寛と言った。父礼厳は西本願寺で要職に就き歌才にもめぐまれていた。寛は学問や和歌を好む父の影響をうけた。
 1880年(明治13)に父である礼厳が西本願寺の布教僧として鹿児島市西本願寺別院の勤務となったので,寛は家族と共に鹿児島市に移り住み名山小学校に転入した。1881年(明治14)寛が8歳の時,父の勤め先が加治木町本願寺説教所(現在の性応寺)に変わったため転居し,性応寺で生活を始めた。礼厳は佛教の教えのほか,万葉集や古事記,佛典,漢籍,舎密学を講じ寛はその全てを聴講した。約2年6カ月の間,鹿児島市と加治木で生活し,礼厳は鹿児島での布教活動を終えたため,家族と共に京都に戻った。
 寛は16歳の時,西本願寺で得度の式をあげ寺院関係の学校の教師になったが,1892年(明治25)19歳の時に文学に志を立て上京し,落合直文(1811〜1903年)の門下に入った。1893年(明治26)落合は浅香社をおこして和歌の革新運動を起こした。寛は門下生中,最多の論文を発表し,その成長には著しいものがあった。その後,寛は1895年(明治28)韓国に渡り教師となり,「虎剣流の歌」や「日本を去る歌」「人を恋うる歌」をつくり,それらをおさめたのが「東西南北」「天地玄黄」など初期の詩集である。
 落合らによる短歌革新の機運は,門下生の寛らによって見事な実を結んだ。その後,寛は1900年(明治33)に新詩社を興し,4月に機関紙“明星”を創刊。第6号より雑誌体として1908年(明治41)まで通巻百号を発行し,詩壇の中心的な存在となって新しい詩歌教育に貢献した。相馬御風,高村光太郎,吉井 勇,北原白秋,石川啄木,木下杢太郎,佐藤春夫,岡本かの子,堀口大学らはこの雑誌もしくは東京新詩社から出た人たちである。しかし“明星”が育てた第一の歌人は与謝野 晶子であった。この雑誌の経営維持のために払った寛の努力は多大であり,それにともない彼の詩歌壇での位置も権威も大きくなった。
 1900年(明治33)以降の寛の詩歌は,従来の粗豪空疎な壮士ぶりが影をひそめ優婉柔美な面が出てくる。“虎の鉄幹”が“紫の鉄幹”に移り変わり,彼の詩歌が充実,円熟さを増した。1901年(明治34)28歳で鳳 晶子(後の与謝野 晶子)と結婚する。
 1904年(明治37)5月晶子と共著「毒草」を刊行,鉄幹の号は明治38年に廃していた。1908年(明治41),自然主義勃興の機運に遭遇し11月“明星”は通巻百号をもって廃刊となる。その後二人は1909年(明治42)に吉井 勇,石川啄木らの編集で創刊された“スバル”に寄稿している。寛は1919年(大正8)4月に慶応義塾大学文学部教授となる。1933年(昭和8)2月には“与謝野 寛短歌全集”が明治書院より刊行された。1935年(昭和10)3月28日風邪から肺炎となり死去する。

寛が刊行した詩歌集
 @東西南北(明治29年7月)A天地玄黄(明治30年1月)B鉄幹子(明治34年3月)C紫(明治34年4月)Dうもれ木(明治35年12月)E毒草(晶子共著 明治37年5月)F相聞(明治43年3月)G之葉(明治43年7月)H鴉と雨(大正4年8月)I霧島の歌(晶子共著 昭和4年12月)J采花集(昭和16年5月)

参考文献
1)与謝野 寛,与謝野 晶子:霧島の歌,改造社. 1929年
2)与謝野 寛,与謝野 晶子,吉井 勇:日本詩人全集4 与謝野 寛,与謝野 晶子,吉井 勇:東京 新潮社,1967年
3)須永朝彦:鉄幹と晶子:東京 紀伊国屋書店,1971年
4)加治木町与謝野夫妻歌碑建設実行委員会:与謝野 鉄幹,晶子と加治木:1982年
5)佐藤亮一:新潮日本文学アルバム24 与謝野 晶子:東京 新潮社,1985年



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