=== 随筆・その他 ===

富 山 紀 行 記

西区・武岡支部    西橋 弘成

 昨年10月から12月まで肺炎で3カ月入院した事は前号に書いた。1月から3月までは午前中の診療とした。病気の原因は睡眠不足と判っていた。年を取ると早く目覚めるという事を子供の頃聞いていた。本年4月から6月までは全休にして休養することにした。この場合,職員には給与6割出せばいいそうだが全額出した。
 4月も末になってくると北国も寒さが和らぐだろうと考え,滅多に会わない富山市に住む弟を,安静を兼ねて訪ねてみる事にした。それだけ元気が快復していた。
 4月28日新幹線で新大阪駅迄行った。前回はそこで次の特急を40分待ったので旅行会社に話して今回は25分待ちで済んだ。特急サンダーバード(雷鳥)は時速120km位だから距離は短いのに新幹線に乗っている位かかった。それでも富山駅迄は何事もなく走った。
 ハプニングは富山駅で起きた。前日,電話で弟は「北口で待っているから」と言った。私はプラットホームから階段を上り,架橋についた。ところが北口は工事中で天幕が張ってあり降りられない。廊下の中央に黄色の大きな線が南へ引いてあり「南口・正面」と書いてある。下へ降りて駅員に聞けば分かるだろうと南の出口へ歩いた。改札口に20歳そこらの女性が制服と帽子をかぶって立っている。私は切符を渡しながら「北口はどちらですか?」と尋ねた。すると,その女性は右手を横に真っすぐ伸ばし「こちらです。」と言う。彼女がさす方は東になるのだが,途中に北口へ行く道があるのだろうと思って駅舎を出て東へ歩いた。ところが左側は鉄道の土手でそれらしい道はない。50m位歩いたらビルが建っていて道は右へ曲っている。店が3軒並んでいて街へ行くようだ。念のため3軒の店の周りを廻ってみたが,北へ行けそうな道は無い。
 私は諦めて駅舎へ戻った。公衆電話から弟の家へ電話しようと思って探すが中々みつからない。狭い出口を5分ばかり探して,やっと大きな柱の裏に置いてあるのを見つけた。こんな物は何処からでも見える処に置く物だと,ブツブツ言いながら電話の前に立った。午後5時に富山駅に着いて30分経つ。段々寒くなってきた。メモをみながら弟の家へ電話するが,私が焦っているのだろう(今,使われていません。)と4度〜5度電話が返事する。弟の家は富山市でも北の方の郊外だ。タクシーで行くだけの金銭は残っていない。宿に泊るだけも無い筈だ。待合室に泊りかな,寒かろう,と考えていると,左側に誰か立った。「僕がかけましょう。」と言って,私のカードを入れ直してかけた。「でましたよ。」と私に電話を渡してくれた。娘がでた。「父は外出中です。携帯を持っていませんので連絡がつきません。」ということだ。その時,左に立ってる少年が「何処へ行かれるのですか。」と聞いた。「北口に弟が迎えに来ているので北口へ行きたいのです。」「そしたら僕が案内しましょう。ついて来て下さい。」と言ってくれた。私は気付かなかったのだが,駅舎を出たすぐに下への階段があり,7〜8段下るとすぐ北の方へ曲っていて,地下道になっており,150m位歩いたら北口へ出た。弟はそこに立っていた。「2時間待ったよ。」と言った。私は少年に「高校生?」と聞いた。「中学生です。」との返事。学校名も言われたが聞き落した。
「貴男はお菓子好き。」「ハイ。」「鹿児島にはカルカンと言う美味しいお菓子があるので今日のお礼に送りましょう。貴男の住所と氏名と,4月28日,富山駅で会った者ですと,ハガキに書いて,ここに出して下さい。」と名刺を渡した。「これからも困った人が居たら助けてあげて下さいね。」と言って別れた。スポーツをしていると言っていたが礼儀正しく言葉遣いが柔らかかった。こんな中学生ばかりなら,いじめで中学生が自殺するような中学校はなくなると考えた。
 翌日の夜,弟の娘が高校時代習った先生に料亭で御馳走になり,この少年の話をしたら,今は大学の教授になっているこの先生が,名前が分ったら私にも教えて下さい。教育委員会で調べて校長さんに会いに行きますと言って下さった。
 チューリップのさかりだったが,以前見たので,今回は,立山連峰の温泉に行った。高穂山の穂高,剣岳などまだ雪が残っていて桜も満開であった。平野も広く出水平野どころでなく,田植も始まっていた。
 海辺へ行くと日本海のアジは大きく身がしまっている。海水は冷たくて魚は大きくて鹿児島のよりおいしそう。数人に土産に買った。
 立山連峰の麓には良質の温泉が沢山ある。そのうちのひとつに弟が案内した。浴槽も広く,ぬるいのといいのと熱いところと分けてある。街の風呂は色が無かったのが残念だった。これは水道水をつかっているためだ。前回行った温泉は水風呂もあった。上がってカキ氷を食べた。それから高山の街へ行った。祭は数日後という事で,山車を眺め街中を通って家へ帰った。
 十数年前行った時は,田圃に弟の家一軒だったが,今回は周りも全部家が建って田圃は残っていなかった。近くに甲突川大の河があったが,水道の水は立山連峰から引いているらしく冷たくて味が良かった。
 夜はストーブを焚いて寝た。昼も時々つけた。富山は大きい家と大きい仏壇を造るのが自慢らしく,弟の家も5部屋は使っていない。固定資産税が大きく(兄貴借してくれ)と時々頼まれる。(借して)はとれて(くれ)だけが残っている。弟の嫁の生まれた家を見に行った。富山市の隣町で大きな家であったが,誰も住んでいなく勿体無いと思ったが,田舎で借りる人もなく,母親は老人ホーム,上の弟は奥州仙台,下の弟は彼女の処へ入りびたりで住む人はいないのだそうだ。亡くなった父親は海外航路の船長でその人が建てたらしい。富山市内だったら借り手もいるだろうに,中学校まではあっても,高校が近くに無いので不便なのだ。
 6日間弟の家に居て,温泉を楽しみ,帰りに大阪府の寝屋川市に住む妹の家に3日泊まった。大阪市役所に勤める長男が,今流行のバリヤフリーの家を新築し,将来は両親,四肢不自由の弟を引き取って暮らすと言っていた。
 水は冷たくておいしい。甲突川の味気ないぬるい水を飲んでいる武岡の私は弟達がうらやましかった。日本海の冷たい海水で育った魚も身が引きしまっていて大きい。武岡で買うアジは小さくてふにゃっとしている。
 10日間の旅で身も心も落ちついて良い休養に成った。7月から再開院出来る気持ちになった。
 新幹線は2年後には富山駅まで出来るそうだ。そしたら5時間で行ける。暑い夏は弟の家へ避暑すればよい。持って行くのはGeldだけ。弟は大歓迎だ。
 帰りは新大阪駅まで,妹の長男の家族に見送って貰って,自由席しか手に入っていなかったが空席もあって,午後4時位には中央駅に帰り着いた。2日後あの少年から手紙が届いた。
 家に帰って6日位して街まで下りて,あの少年(青山君)へカルカンを送った。5月13日の午前,手紙を添えて送ったのだが,14日夜8時電話が鳴った。誰かなと思って電話をとると「カルカン,おいしかったです。有難うございます。」という青山君の電話だ。
 彼は2年生だそうで,3年にならないと修学旅行も無かろう。あっても富山からなら,東京・大阪・京都位だろう。最近は高校生は海外へ行く学校もあるそうだが,彼は(鹿児島の事はよく知りません。)と書いていた。
 私は(貴男が高3か大学生になったら夏休みおいで。御両親の許を得て。狭いけど貴男が寝る位の部屋はある。1週でも10日でも泊りなさい。食事は息子の嫁が作るから。貴男と私は70歳位離れているが,これから心の友になって下さい。高校・大学・就職・結婚等で富山市を離れたらハガキ1枚下さい。私は天国へ行くまで武岡から動きません。鹿児島は歴史の県まちで色々見る処があるよ。日曜日は息子が車で案内するよ。私は80歳で車降りたので。)と書いてカルカンと一緒に送ったのだった。
 大学の先生にはすぐ住所・氏名を知らせた。(富山の新聞に投稿したらいいですね。)と大学の先生は言われた。私はそのつもりでいる。今迄で一番嬉しい旅となったと思った。





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