随筆・その他
このご恩返しはいつかきっと・・・
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私は今,医師として働くことができて,本当に本当に幸せです。
思い返せば,私の遠回り人生は高校時代のアメリカ留学に始まりました。家庭科室の片隅の本棚に積み上げられていた『月刊家庭クラブ』。何気なく手にしたその雑誌に「全国高等学校家庭クラブの代表として1年間アメリカ留学する奨学生を募集」の記事がありました。進学校で学ぶ高校生にとって家庭科は興味の薄い科目でしたが,全額免除の奨学生とあれば話は別で,私は親にも学校にも内緒で応募し,東京での面接を経て留学させていただけることになりました。高校3年生での留学は周囲の大反対を受けましたが,日本代表として全米各地で行ったスピーチは,1万人の聴衆を前に行ったオクラホマ州大会,ワシントンDCでの全米大会,帰国後の全国大会も含め70回にもなり,本当に貴重な経験をさせていただきました。お金を出してくださったのはキッコーマン株式会社でした。私はそれ以来感謝の念を抱きながらお醤油は必ずキッコーマンの物を使っています・・と思いましたが,田舎者の私には少々塩辛く,すぐに地元のお醤油に戻ってしまいました。キッコーマンさんごめんなさい。
意気揚々と帰国後,待っていた現実はすでに大学進学してしまった元同級生と,すでに受験体制に入っている新しい同級生。私は気の進まないまま医技短の看護科に進学しました。不良学生だった私は,実は別に仕事を持ちながらの通学でしたが,「時にはそういう面白いやつがいてもいいだろう」と,当時学部長でいらした鹿島友義先生に大目に見ていただき無事卒業できました。あの時,「仕事か学業か」と迫られていたら仕事を選んで,今の私はなかったかもしれません。
卒業後東京の大学に編入学しましたが,医技短の教授の計らいで精神科の慢性病棟で看護師としてアルバイトをさせていただき,看護師寮にも入れていただきました。この寮は無料にもかかわらず,20部屋ある中に3人しか住んでいないという古めかしいところでしたが,患者さんと同じ給食を1食200円で食べさせていただき,毎週末および長期休暇に準夜・深夜勤務をすることで学費も生活費もすべて自分で賄うことができました。本当にありがたく感謝の気持ちでいっぱいでしたが,慢性病棟での夜勤の仕事は吸い殻でいっぱいになった灰皿の片づけや(当時は病院中,煙モウモウでした),トイレ掃除,おねしょをした患者さんたちの衣類の洗濯などが主でした。申し送り前の寒い早朝,病棟の屋上で患者さんたちの洗濯物を干しながら,雪化粧の富士山を遠い空に見つけ涙があふれたこともありました。
それまでの経験から何とかして医師になりたいと思い,大学卒業後は保健師として働きながら医学科の学士編入学試験を受け続けました。でも当時始まったばかりの学士編入学試験の倍率は高く,群馬大学の最初の試験では確か倍率169倍だったと記憶します。箸にも棒にもかからず,それでも5年目で地元鹿児島大学の第2期生として拾っていただくことができました。本当に本当に飛び上がるほど嬉しかったです。29歳での進学でしたが,看護科の時にあこがれていた「1講」に座って講義を受けられるだけですべてが輝いて見えました。看護科で有名な「愛について」の講義でお世話になった石澤 隆先生には,本当の愛のキューピッドとなっていただき,優しい旦那さまとも結婚でき,当初の計画通り6年生の12月,卒試と国試の間で長男を産みました。
今村病院で初期研修をさせていただき,野村秀洋院長や放射線科の西田博利先生をはじめ多くの先生方から大切なことを教えていただきました。研修終了後も内科外来や人間ドックの担当として時短勤務をお許しいただきながら働き続けることができました。特に孤軍奮闘の内科外来では,隣の診察室で診療をされていた血液内科の松元 正先生に何度も助けていただきました。人間ドックでは大久保智佐嘉先生や武元美恵先生にご指導いただき,また,3人の我が子は産婦人科の中村砂登美先生にとりあげていただき,小児科の今村直人先生,溝田美智代先生,四元景子先生(リレー随筆・愛のバトン,ありがとうございました♪)に処方していただきました。安心して妊娠・出産・育児ができる環境だったので,出産数日前まで働き,育児休暇をとることなく仕事に復帰できました。肺がんを患っていた父は帆北修一先生はじめ外科の先生方に温かく看取っていただきました。今村病院は私と有馬家にとって,今までもこれからもずっと特別な病院です。
でも,「何科ですか?」と聞かれて答えられないことに焦りを感じ,現在はかねこクリニックで乳腺・甲状腺の勉強をさせていただいています。こちらでも時短勤務をお許しいただき,夜のカンファのときには子どもたちが事務員さんたちにかまってもらいながら待合室で待たせてもらうような,アットホームな環境に本当に感謝しています。牛歩のような進みですが,先生方のご指導のもと少しずつ技術も身につけ,同じ女性・母としての乳がん患者さんのお話を聞くことができ,毎日がとても充実しています。
今まで本当にたくさんの方々のご厚意でここまでやってこられた私ですが,このご恩返しはいつかきっと・・・。まずは3人の子どもたちがすくすくと健やかに成長し,いつの日か世の中のお役に立つ人間になるよう,精一杯愛情かけて育てたいと思います。それまで休むことなく細く長く働き,子育てが一段落したら,今まで免除していただいているへき地医療へも貢献できたらいいなぁと思う今日この頃です(いかがでしょうか,旦那さま??)。
こんな私ですが今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
| 次号は,かねこクリニックの金子朋代先生のご執筆です。(編集委員会) |

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