随筆・その他

リレー随筆

我が家の育児日記

北区・錦江支部
(今村病院)    四元 景子

 子どもの頃,保育士になることと2児の母親になることが夢だった。
 現在,我が家には3人の子どもがいる。4月から小学2年生になる長男と,4歳の長女,2歳の次女である。保育園にお世話になるようになってから,保育士になっていなくて良かったと思うようになった。1日中子どもの相手をして,家でも子どもに振り回されたら耐えられない。いつも笑顔で受け入れてくださり,きめ細かい対応をしてくださる保育園の先生方に頭が上がらない。
 独身時代から女の子が欲しかった私は,妊婦健診で男の子とわかったとき複雑な気持ちだった。でも,2回流産していたので,とりあえず無事に産まれてくれるよう祈った。妊娠悪阻で入院し,医局の先生方にご迷惑をおかけした。悪阻は安定期に入ったら良くなるはずだと期待したがすっきりした日は訪れず,結局,出産前日まで嘔吐は続いた。
 出産の痛みがどんなものか本当に怖かったが,赤ちゃんに会える楽しみと,産めば嘔吐から解放されるという思いもあった。
 いよいよ産まれる頃になると,横になったら息苦しくて目が覚めてしまい,1時間おきくらいに起きていた。産まれたら眠れない日が続くのに,すでに眠れていないと焦った。
 健診ではまだ産まれそうにないと言われた日の夜中,破水したようだと気付き,実家近くの産院へ行った。腹部にモニターをつけて横になっていると,記録されている波形では結構子宮が収縮している。陣痛はなく,国家試験の時を思い出しながら,この波形は他の人のものではないかと疑った。看護師さんからは陣痛が来ていないか確認されたが,まったくわからなかった。このときまで痛みに敏感だと思っていたが,どうやら違うらしいと初めて知った。
 初産なので部屋で待機することになり,移動してしばらくすると陣痛が始まった。なんとなく時間がかかるのではないかという思いがあり,主人は夕方に産院に来てもらうことになった。里帰り先は車で3〜4時間の場所。十分間に合うと思っていた。
 少しすると下痢も始まり,陣痛の波がおさまってトイレに行くと,それが刺激になってまた陣痛がくるという,休みないときが来た。ちょうど特別室しか空いておらず,無駄に広い部屋だったことも災いし,ベッドからトイレに行くのが本当に辛かった。ふわふわのベッドも陣痛のきっかけになり,母に交代してもらってソファーで横になった。
 陣痛がどんどんくるので,午前6時頃,分娩室へ移動することになった。特別室が一番遠い位置だった。15床程の産院の端から端が,本当に遠く感じた。少し前に経産婦さんがLDR(Labor Delivery Recovery:陣痛分娩室)に入ったところで,とりあえず古い分娩室に入った。分娩台に乗るのも一苦労だった。
 当初の予想は外れ,経産婦さんを追い越し,午前9時半過ぎに出産した。もちろん主人は間に合わなかった。いきむ合間に,主人があとどれくらいで着きそうなのか確認された。急いでこちらに向かっているとは聞いたが今はそれどころではなく,間に合うかどうかよりも早く産み終わりたいという一心だった。
 産まれた我が子を抱くと,自分の子どもがこんなにも愛しく思えるのかと驚いた。顔はガッツ石松さんにそっくりだった。
 おなかに赤ちゃんがいなくなると同時に,ものすごく食欲が出てきた。昼食がおいしくて,食事がこんなに楽しみになったのは10カ月ぶりだと感動した。入院中は授乳とオムツ換えくらいしかなかったが,出産の疲れは予想以上だった。妊娠中にも何度か視野狭窄になっていたが,産後も数日は視野欠損があり少し怖かった。
 赤ちゃんはずっと見ていても飽きない。どこを見ているかわからないが,ゆっくり何かを見つめてあくびをして寝る。たまに笑顔を見せてみんなを喜ばせたかと思うと,大きな声で泣いて抱っこ。だが,今思えば大して泣くこともなく,なにもしなくてもいいし,抱っこしても軽い。それでも一人目の時は重く感じたし,忙しく思っていた。
 赤ちゃんのいる生活に慣れるのに苦労はしたが,主人は協力的で,家族や周りの先生方に支えられ,今の病院で復職の機会をいただいた。
 1月に復職する予定だったが,年末に長男が化膿性髄膜炎で入院した。今は予防接種が受けられるが,当時はまだ日本になかった。肺炎球菌性で,入院した日はM先生が何度も訪室してくださり,その度に「今日痙攣起こしたらとめられないかも」と言われたのを覚えている。年末年始の体制で,日替わりで多くの先生にお世話になり,6週間入院したあと無事に後遺症なく退院できた。本当に感謝の気持ちでいっぱいだった。
 長男は砂遊びが好きなおとなしい子だった。しゃべるようになるとますますかわいくて,次が女の子のようだとわかったとき,今度は女の子をかわいがれるか心配になった。
 二人目も悪阻に悩まされたが,きつすぎてあまり覚えていない。周りの方々には本当にご迷惑をおかけしたと思う。
 出産の痛みを忘れるなんてありえないと思っていたが,1年くらいですっかり忘れ,二人目が産まれる直前に思い出した。怖くなったが後には引けない。
 40週を過ぎた健診で,まだ産まれそうにないから予定分娩にしましょうというお話をいただいた。ちょうど自分の誕生日と同じになるなあと思っていたら,その日の夕方,陣痛が始まった。いきなり5分おきだったが,出産は長くなると思い,夕食をとってから産院に電話した。とにかく急いでくるようにとの指示だった。産院までは車で1分くらいだったが,着いてからは陣痛の間隔もどんどん短くなり,LDRに入るまでに時間がかかった。前日に母が体調不良で救急搬送されており,治療して帰宅したばかりの母に無理はさせられないという話を助産師さんとしたが,そんな心配は全くいらず,破水とともに児頭がぐっと降りてきてあっという間に産まれた。まだ2時間以上はかかるだろうと勝手に思っていた私は,破水の痛さにも驚いたが,破水後の進み具合にも驚いた。ちゃんと病院で出産できてよかった。
 長女は手のかからない赤ちゃんで,気が付くと眠っていて,育児に慣れてきた分ほったらかしになってしまった。
 長男は赤ちゃんがきたことが嬉しくて,抱っこしたがり,歩くようになると手をつないであげていた。長女も兄を慕い,仲良し兄妹になった。「妹はぼくが守る」と言い,保育園に向かう時は勢いがあったが,いざ着くと,妹はさっさと遊びに行き,兄は泣いて暴れて大変だった。今は長女が同じ感じなので,やっぱり上の子がいると下の子は安心するのかもしれないと思えるようになった。
 三人目の次女の出産は,無痛分娩を経験してみたくて今村病院でお世話になった。結局,逆子で帝王切開になったが,安心して出産に臨めたし,違った経験ができたという意味では良かった。
 次女はみんなにかわいがられている。成長がゆっくりな方で,髪も少なく,2歳を過ぎた今も赤ちゃんらしい感じだ。今は反抗期で大変だが,それまで上の2人は競い合って抱っこしていた。
 性格は長男と次女が似ている。慎重でひょうきん。2人とも,歩き始めた頃は1〜2cmの段差をわざわざ座って降りていた。
 次女はものすごくビビリでもある。おゆうぎ会の練習で,「大きなかぶ」のかぶの絵を見て泣いた。手形をとるために手に絵の具を塗るという説明で,先生が自分の手に絵の具を塗って見せたときも泣いたようだ。
 長女はしっかり者でデリケート。朝,急いで支度をしていると,マイペースな2人のために長女はせっせと準備を手伝ってくれる。何をするにも「いやいや」ばかりの次女のために静かに我慢もしてくれる。ただ,それが災いし,長女は昼に尿失禁をするようになった。私の勤務を減らしていただき,長女はすぐに元通りになった。
 だが,勤務が増えたとき,今度は風邪をきっかけにご飯を飲み込めなくなった。飲み込めないが,おなかはすくので「食べる」と言い,いつも食事に1時間以上かかった。保育園でもおかわりしていたのに,いつも居残りで食べるようになった。私なりに悩んでいたが,私の勤務が減った途端,長女は元通りになった。心の調子が悪かったのかと初めて気付き,長女に申し訳なく思った。職場でも,3人いると真ん中が愛情不足になると常々言われていたが,改めて実感した。
 子宝に恵まれ,まわりの方々にも恵まれ,細々とだが仕事もさせていただいている。そのことに感謝しながら,これからも子どもたちに愛情を注いでいきたい。


次号は,かねこクリニックの有馬 都先生のご執筆です。(編集委員会)




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