=== 新春随筆 ===

受 験 と 就 職



西区・武岡支部
(西橋内科) 
            西橋 弘成

 今年の高校生の就職率は10月で85%,大学生は65%ということだ。たとえば,教員になろうと思って教育学部へ進んだ人が,先生になれないのだ。
 私は昭和26年高校卒だが,その頃も就職難であった。大学へ行きたかったが,金がないので暫く働いて金を貯めてからいくことにして就職することにした。
 第1回目は,人吉保健所の入社試験であった。就職係の先生の推薦で,A君と2人,熊本市の県庁に面接に行った。4階の係のところへ行ったが,面接があるわけでもなく,3人の男が,時々ジロジロと私達を見るだけだ。その間5分ぐらい。「いいよ」と言われて下へおりた。あれが面接?人吉を出る時からA君の採用は決まっていた。A君の父が本年3月退職で,そのあとA君が入るとすでに決まっていたのだ。ただ,県庁の建て前,みかけだけでも試験をしておかねばならぬらしかった。就職係の先生も,ご存知なかったらしい。
 その他,九電,営林署,銀行,国鉄,郵便局等似たようなことであった。郵便局は高校の教室で50人ペーパーテストを受け,2週間後,人吉高生3人のみが合格と,大きく名を書かれ局の前に貼り出されたが,結局,すでにバイトしている人が採用され,私を含む3人はダメ。
 まともだったのは検察庁。4人が論文を書かされ,M君と私が面接に呼ばれたが,M君が採用された。彼は弁護士まですすんだ。
 初級国家公務員試験が熊本市であり,私は受けに行った。人吉高生30人中3人合格。私はダメ。後になって税務署員のテストだったとわかり,落ちてよかったと思った。税務署の仕事はスピードを要するし,私の嫌いな仕事であったから。税務署と警察は,人を犯人と考えてみるクセがあるから嫌い。

 昭和26年3月8日,卒業式まで,とうとう職が決まらなかった。翌9日から行商を始めた。大きい背負いカゴに干乾物を入れて,歩いて田舎を回る。なるだけ人の行かないところへ行く。大雨の日が休みだ。朝めし食って出て夕方または夜,家へ帰りつくまで水以外何も口にしない。
 5月,やっと中古自転車を日払いで手に入れた。自転車片手に,魚を売りこんだ。
 農家では,米で魚を買う人がいる。その時,米を多目に盛ってくれる。米を売る店はきちんと量ってくれるから余分のが出て,それが私の小遣いとなった。
 しかし,行商をしていては大学への勉強ができない。3月末締切で小学校採用教員試験があった。教員はしたくないので申込みせずにいたが,何もないのでギリギリに申込んだ。
 4月初めにテストがあった。250人ぐらい受けたが,大人も50人ぐらい来ていた。
 5月初め50人ぐらい面接があった。人吉高生で勤め先がその時5人ぐらい決まった。私は「今日来てもらったからといって必ず採用にはなりません」と言われた。これもダメかとがっかりした。
 7月初め,高3の妹を通じて就職係のH先生から,「今夜うちへ来い」と伝言があった。何事だろうと行った。自転車で15分。
 「西橋,君は中学を望んでいたが岩野小に空きができたぞ,そこに決めたぞ。」
 「先生,ありがとございます。小学校でも十分です。行商では大学受験勉強もできんし,金も貯まりません。ありがとうございます。」
 私は行商をしながら「自分には行商は向いとらんばい,こげんきつかなら死んだ方がよっぽどましばい」と何度か思ったことがあった。これで,妹2人も高看に行かせられると嬉しかった。
 昭和27年3月,上の妹を,九大の高看に行かせた。月2千円〜3千円送ってやればよい。卒業したので東京日赤へ勤めなさいと東京へ出した。上の妹は,出来がよかったので,3年間看護師として勤めたのち,東北大医学部へ進学し,プシコ(精神科)の医者になった。
 下の妹は国立大阪病院高看へ行かせ,その後,自分で保健学校へ2年行き,保健師になった。この2人を高看へ出す間,私は教員を勤めた。
 下の妹の卒業が近づいたので,次は私の番になった。現役なら工学部へ行くつもりだったが,工学就は25歳で採用終わりと聞いたので高校の時就職で苦労したので,就職の苦労のない仕事をと考えた。医者なら年をとっていても大丈夫だろうと,医学部へ方針をかえたのだった。高卒以来,勉強開始まで8年経っていたので苦労したが,時間はかかったが目的を果たした。田舎の高校だから,1年1人2人の医学生合格,2年に1人の東大合格ぐらいだ。
 私が就職に苦労したのは,肺結核を患っていたからである。

 岩野小へ採用されたのは,小学校代用教員採用試験250人中1番で,岩野小の教頭さんがそれを知っていて岩野が空いたので,自分の息子の家庭教師もかねて欲しかったからだ。
 1番といっても,いい人は大学進学しているので,自慢できるものではないが,全教員中1番の私と2番の成績の人とは50点ぐらいの差はあると思う。家で勉強できたり進学組に入って勉強していたら,高校3年間1ケタの順位でいられたと思う。上の妹は同じ環境で,東大へ行った男子2人の後の3番を3年間維持したのだから。



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