=== 随筆・その他 ===
幼き頃の思い出(昭和初期)
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時は秋,歳は米寿となれば,つい昔を偲ぶようになってくる。幼い頃,体の弱かった私が,戦中戦後を通じてよくもここまで生きて来たものだと今でも不思議に思っている。今では出来ないような珍しい体験を少々述べて昔を偲ぶ縁としたい。
祖父の家が高見橋の近くにあった。高見橋は小さな木造でそれに沿うように鉄橋が並び,大正末期から既にマッチ箱みたいなチンチン電車が武駅(今の中央駅。当時は終点)まで通じていた。当時は鹿児島市でも甲突川の内側を「川内」といい,甲突川の外側を「川外」といった。だから私は川外の人間だった。家の周囲は埋め立て中や建築中の住宅が多く,いわゆる新興住宅地帯だった。祖父の屋敷は広く稲田,麦畑,お茶畑,桑畑などがあり,それに広い竹薮とか大きな樹木が茂っていて,小川も流れて鯉,鮒,鰻も多く,セキレイ,カワセミなども飛び非常に自然の豊かな環境だった。
春になると田圃は蓮華草が一面に敷き詰められ蝶々が飛び,それに子供達は小さな竹篭を持って畦道沿いに,ちんこばあちゃん (ちいさなおばあさん)に連れられて蓬を摘んで回った。籠がいっぱいになると持ち帰ってカカラン団子(蓬団子)のおやつにしていた。
庭の一角に小さな社があって側に椿が立っており,季節になるときれいな花がいっぱい咲いており,その頃になると子供達はメジロの罠籠に夢中になっていた。椿の枝に囮の入った鳥籠を仕掛ける。囮がチーッと啼いている。静寂のひと時が過ぎたとき俄かに囮が騒ぎ出す,子供達は木陰に隠れて物も言わずにじっと待機している。メジロが時には数羽何処からともなく近寄ってくる。途端に鳥籠がパタンと閉まる。緊張を強いられていた子供達がわっと飛び出す。楽しいひとコマだった。あの瞬間は今でも思い出す。他にもウグイス,ツバメ,ムクドリ,ツグミなどもよく見掛けた。
祖父は小鳥を飼うのが好きで,カナリア,インコ,ウヅラなどの籠をずらりと並べて楽しんでいた。子供達はそれぞれに餌を練って小鳥達に与えていた。今でも私が小鳥好きなのはその頃の印象なのだろう。
庭に一抱えもある桜の大木があり,春になると爛漫と咲き誇りとても奇麗なものだった。子供心に庭先に散る花吹雪から『花咲か爺』の物語を思い,「意地悪爺さん」を想像していた。
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写真 1 ヘクソカヅラの花
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写真 2 ヘクソカヅラの蔓
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桜の大木の近くに高さ6尺ぐらい,周り2〜3坪ぐらいある大きな金柑があり,一面真黄色な実をぎっしりつけてそれは奇麗だった。「蜜柑,金柑,酒の燗,親父や折檻,子は聞かん」と囃していた言葉を思い出す。
また,大きなグミ木があって提灯型をした赤い小さな実をいっぱい吊るしていたし,ビワの実も黄色く美味しかった。ヘクソカズラの花を鼻の頭にのせて天狗の真似をしたりしたものだった(写真1,2)。同じ頃に周囲の広い竹藪で,竹の子を取って竹の子御飯を御馳走になったことを思い出す。
毎晩夕方になると近くの竹薮に雀の大群が何千羽も集まり,わいわいがやがやと騒ぎ,うるさいこと甚だしかった。最近,中央駅前ナポリ通りの並木に雀の大群が集まって,その騒音と糞公害で社会問題化になっているが,当時もその騒音は大変なものだった。
夕方になるとコウモリは夕焼けを背景に,前後上下にひらりひらりと飛び交わしていた。その時間になると庭いっぱい「びっ (ヒキガエル:蝦蟇)」の群れが近くの竹薮からぞろぞろと這い出し,のそりのそりと歩き出てくる。一体今まで何処にいたのかと思うぐらいの数で,人間が歩くのに邪魔になって困った。体中,疣だらけで分泌物が不気味なものだった。露店商人のガマの油の血止めの効能の仕草や筑波山で見た四六の蝦蟇の標本,または歌舞伎の忍者児雷也と大蛇の格闘の物語を思い出す。他にも小さくて可愛いアマガエル,上品なトノサマガエルなども周りの竹薮から無数に這い出していた。紫蘇の葉を糸で結わえて竹の棒に吊るし,蛙達を吊り上げて楽しんでいた。
梅雨時は庭の茂みの木の枝に蜘蛛が丸い網を張り,虫を捕らえていた。周りにはアキアカネ,シオカラトンボ,ギンヤンマなどもよく飛んでいた。
また,子供同士で武岡に登り採取してきた「かからん葉(サルトリイバラの葉)」にカカラン団子を包んでおやつ代わりにしていた。今考えると小学校にもあがらぬ子供達でよくもあの武岡の崖道を登ったものだ。曾祖母が「カーッタ者(と)がおっで気を付けやんせ(変わった者・変人がいるから気をつけなさい)」と児童の誘拐を心配するものだった。
夏も盛りになると甲突川を思い出す。今の鹿児島東急インのところには大きな製氷会社があり,子供達は川遊びの末,喉が渇くと氷のかけらを貰いに行っていた。かねがね大量のきれいな水を甲突川に流しており,そこに数本の杭が立ち,魚の溜まり場になっていた。もちろん鮒,鯉,鰻,亀等が多かったが,中でも思い出に残るのは,透き通ってきれいな「シラウオ(鰻の稚魚)」がずらりと並んで川上に向かってぞろぞろと泳いでいたことだ。子供達は石を並べて彼らの行く手を遮り,日本手ぬぐいを広げて掬い取るものだった。現在シラウオが絶滅危惧種だと聞く。
この季節は夜になると甲突川から蛍の群れが庭先まで飛んで来ていた。子供達はそれを集めて,時には蚊帳の中に離して淡い光の点滅を楽しんでいた。
5月になると味噌,醤油づくりが始まる。屋敷が広く麦,大豆も自分の屋敷内で収穫されていたので親類中のおばさん達が集まり,とても忙しく働いていた。出来上がったばかりの醤油の好い香りが子供の鼻をひきつけた。
八十八夜の天気の良い日を選んで家中揃ってお茶摘みが始まる。新葉を茹で,揉む時の香りは何ともいえない。こうして味噌,醤油,お茶には不自由しなかった。
一方,屋敷に桑畑もあったが,蚕が繭を作る頃になると彼等の食欲が極端に増えるので,一晩中ザワザワ,ザワザワと動き回って桑の葉を齧り,こちらが眠れないものだった。食べる葉を絶やさぬように始終補給してやらねばならなかったので,桑畑と蚕部屋を往復して子供ながら結構忙しかった。繭を作ってしまうと嘘のように静かになっていた。繭が出来上がると女達の糸つむぎが忙しくなる。また甘い物など無い時代だったから,桑の黒い実を腹いっぱい食べて唇を真っ黒にしていたものだが結構おいしかった。今でもはっきり思い出す。
秋になると屋敷の入り口に大きく立ち塞がっていた,一抱えもある柿の木に全樹真紅,燃えるように豊かに実った柿が夕日に映えている時は,荘厳な美しさだった。祖母の一声で家中の男達が揃って長い竹竿で柿の実をもぎ取り,それを女達がきれいに皮を剥いて軒先に吊るす作業が行われた。長い軒先にずらりと吊るされた柿の列は,まさに秋の風物詩になっていた。その頃,庭先のあちらこちらに鈴虫,松虫,蟋蟀が涼しい音を立て,しんみりと聞いていたが,時にはクツワムシの騒がしい声が嫌だった。
年末は餅つきだ。各家庭によって餅つきの日が決まっており,近所の家々からペッタンペッタン餅つきの音がして,「あの家は餅つきが始まったぞ」といっていた。正式の三段構えの鏡餅が出来上がり一段落すると,次に大抵蒸かした芋や黒砂糖を搗き足したりして切り餅にしていた。随分長い間,おやつとしてスナック菓子代わりになっていた。今みたいに賞味期限という言葉もない頃だし,のんびりしていたものだ。
昔は夜の寒さが酷かったから甘酒も大好物だった。今の甘酒は昔に比べると味が大分違うけれど,私は今でも寒い夜は自分で甘酒をたてて一人で飲んでおり,時には夜勤の看護師さんにもお裾分けしたりする。同じ頃,「蕎麦んねいぼ」も大好きだった。これも自分で粉を買ってきて一人で練って幼い昔を偲んでいる。
ここに約90年前の私の幼い頃の1年を振り返ってみた。世の中は今みたいに豊かで便利ではなかったが,それぞれに今より伸びやかな人生を送っていた。しかし,それらの思い出は総て戦火により灰になってしまった。この頃の猛暑につけて思うのは,昔はアスファルトの照り返しもなく,コンクリートジャングルもなかった。自動車の騒音,排気ガスもなかったし,街中緑が濃く風通しもよくて涼しさも段違いだった。改めて昔を懐かしく思う。後輩諸君が今後90年経った頃にはどんな感慨が残るものだろうか。

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