=== 随筆・その他 ===

公衆衛生異聞−私史・公衆衛生行政から−(後編)


北区・上町支部
(元鹿児島県衛生部長・尊厳死かごしま名誉会長) 内山  裕

5.水俣病と環境行政
水俣病との出会い
 まる8年間の加世田保健所長から加治木保健所長へ転じてからは,管轄することになった三島村,十島村という離島の健康管理のあり方に悩んでいた。単なる巡回診療の充実に留まらない,島民自らが参加する形を模索し,保健所職員総力を挙げた。その頃,鹿児島農村医学研究会の設立に奔走していた縁もあり,長野県佐久総合病院の若月俊一院長の教えも受けた。そんな背景の中で,長野県八千穂村を参考に,島ぐるみ健康台帳方式を発足しようとしたのだった。
 その時代,漸く経済成長というフレーズが周囲に溢れ,農家の畜産は多頭飼育が普通になり,農薬の普及は農家の生産を倍増させ,農村生活は明らかに変貌しつつあった。経済的には豊かになったが,河川は汚れ,悪臭が立ち込め,その苦情処理に保健所は追われていた。
 そんな折,保健所長会議に珍しく金丸三郎知事の出席があった。知事の訓辞の後,自由に保健所長の意見を聞きたいとの意向が示された。医師の確保問題など要望がなされた後,挙手してから私の考えを述べた。畜産,澱粉,焼酎等による水質汚濁,悪臭などの苦情処理に追われている保健所の実情を報告し,農政指導のあり方に注文をお願いした。
 漸く,公害という言葉が馴染まれて来始めていたその頃,県庁上層部では,公害という難しい行政の所管を巡って議論があったらしい。時の衛生部長に呼ばれて意見を求められた私は,部内課長や多くの保健所長が避けたいのも理解はするが,地域住民が日常生活の中で悩んでいる以上,積極的に取り組むのが本来行政の,公衆衛生のあるべき姿だと,私見を述べた。その後暫くして,再度部長室に呼ばれ,公害行政の基礎づくりを引き受けて欲しい旨の内示があった。昭和45年春のことだった。
 公害草創期のとりわけ数ヵ月は,公害という名の実態を体に染み込ませるために,寝食を忘れた。地方自治法,法律と条令,雑誌「ジュリスト」「法律時報」などの書籍に埋もれていた。影響を受けた方々の名前は,今でも諳んじている。橋本道夫,原田正純,宮本憲一,宇井 純,伊東光晴,宮脇 昭,飛鳥田一雄氏等の論客。
 無論,公害の現場にも足を運んだ。栃木県の足尾銅山鉱毒事件や三重県の四日市公害の現状なども詳しく視てまわった。
 そんな中で水俣病との衝撃的な出会いがあった。潮の香りに草いきれが混ざり合う暑い日,出水市郊外の患者宅訪問で会った2人の胎児性水俣病患者の病状の酷さは,生涯忘れることはないであろう。『人の命は限りなく尊いことを態度で示さなければならない公衆衛生医の,これは背負わなければならない十字架だ。』
 帰りの夜汽車に揺られながら,自責の念に苛まれたまま,地元保健師が話した『まだ潜在患者はいるようだ』にこだわっていた。帰任して直ぐ,所謂水俣病掘り起こし検診の検討に入った。当時,私の念頭にあったのは,地域に可能な限り広く網をかけ,保健師等による予備調査と,医師による検診を経て,水俣病の疑い濃厚な患者を拾い出し,認定審査会申請を奨める。疑わしい所見が残る人は,要管理者としてカードを作成し,定期的に観察を続ける。大要,こんな概要であったが,相談に応じてくれる専門医が皆無で,神経内科医を探すのに苦労していた矢先,新設の鹿児島大学医学部神経内科に井形昭弘教授(後に鹿児島大学長)の着任があった。暗夜に光明が見えた。所謂8万人検診が始まったのは,翌年昭和46年のことである。
写真10 水俣病患者宅訪問に
鎌田要人知事に随行


 先駆的な学問的な裏打ちを背景にしながらも,企業責任,補償,裁判,行政の混乱の中,水俣病救済対策が長い歴史を刻んでいくことになる(写真10)。

鹿児島湾環境容量
 公害問題が県民の間でも大きな関心を呼び,緊急な事後処理に追われている頃,鹿児島県産の牛乳からBHC(ベンゼンヘキサクロリド)が検出され,更に住民の母乳からまで農薬検出という事態が明らかになった。澱粉企業,畜産企業,パルプ製造業,川内火力,日石喜入基地,等々,行政は繁忙を極め,嘗ての公害課も三課で構成される環境局へ変貌を遂げた。地域開発という命題と原子力発電所立地対策という課題に向き合いながら,私は,科学技術の発達とは人間に果たして幸せをもたらすのか,文明とは何か,東洋の古い思想「足るを知る」を考えながらの激動の12年間であった。
 環境の善し悪しを判断するバロメーターに,望ましい基準として環境基準が存在するのだが,国が決めるのは問題があるのではないかと,私は疑問を持った。国が定める環境基準というものは,いわばナショナルミニマムだから,県がこれに上乗せという形で基準をより厳しくするということは許されて良いことではないか。私の信念であった。
 そう念じて,国内トップの学者グループの支援を受けながら,国に先駆けて踏み切った本県独自の硫黄酸化物にかかわる環境上の基準は,各方面から注目を浴びたのだった。
 県民にとって,良好な環境を求める願いが強い一方,豊かな生活の確保も,地域共通の願望でもあった。両面をどう両立させていくべきか,判断するに足る客観的科学的資料を提供するのが,環境行政に与えられた命題である,と信じていた私に,母なる海,鹿児島湾の環境保全という難問が待っていた。
 鹿児島湾という環境の良否を判断するのに,地域住民にとっては,汚染物質ごとに例えばBOD(生物化学的酸素要求量)が何ppmといわれるよりも,総合的に100点満点の何点といわれる方が理解しやすいだろう,そんな総合指標を考えてみたかった。
 鹿児島湾の持つ自然浄化能力の限界を,環境負荷の受容限度として数量化し,その数値と比較することによって,湾のいわば健康度の判断が可能になるに違いない,そんな発想から生まれたのが環境容量という環境指標であり,鹿児島湾ブルー計画として世に公にした水質環境管理計画であった。
写真11 県議会各派に環境容量の解説を行う


 同時に,環境容量という概念には,経済システムの枠組みへの新たな挑戦という意味もあった。大量生産・大量消費・大量廃棄型の社会経済システムが環境問題の危機化を招いたとすれば,あらかじめ環境容量という環境の制約条件を設定し,この枠の中での人の活動を許容しようという考え方が容認されていいのではないか。
 ささやかではあるが,私達の真剣な提言であった(写真11)。

6.変革の時代
著書「素心随想」「弱者の視点」
 パートナーであった郡司篤晃衛生部長(後に東京大学医学部教授)が厚生労働省の課長へ転勤することになり,環境局長の私が衛生部長のポストを継ぐことになったのは昭和57年の夏のことだった。
 この年は老人保健法成立の年になるのだが,壮年期からの疾病予防,健康づくりをはじめとして,治療,リハビリテーションに至るまでの,一貫した保健サービスを目指そうとする法の理念をどう定着させるか,大きな課題であった。
 奄美地域の中核病院として機能すべき,県立大島病院の全面改築をすすめる一方,予て懸案の,既存の結核予防会,成人病予防協会の一体化を図り,国立病院の統廃合をも含め,所謂総合保健事業の拠点づくりとしての県民総合保健センターの設立に情熱を燃やした。
そんな頃,昭和58年7月,当時の皇太子殿下・美智子妃殿下の行啓があった。全国自然公園大会御臨場,環境センター御視察など2日間にわたり,ご案内・ご説明,更に介添え役を務めさせていただいた。
 加えて,翌昭和59年5月,全国植樹祭御臨場のため行幸された昭和天皇を,霧島山麓の自然薬草の森に,供奉ご案内・ご説明申し上げる機会に恵まれた。
 この年の秋,私はささやかな一冊の本「素心随想」を世に送った。
 「素心随想」には,3人の方の序文をいただいた。鎌田要人県知事からは,『他人の痛みを自分の痛みとする,真摯かつヒューマンな足跡』,市来健史県医師会長からは,『ロマンチシズムとひたむきな謙虚さ』,そして日高 旺南日本新聞社専務(後の社長)からは,『絹のように繊細で,しかも勁(つよ)い人』と,それぞれに,思ってもみない,身に余る温かい励ましをいただいた。先輩,友人,知人,温かい友情の輪の広がりの中で,思いもかけず版を重ねた。そんな折,宮内庁東宮職侍従を通じて,皇太子殿下・妃殿下から,読後感の温かいお言葉が届けられた。およそ考えもしないことだった。
 慌ただしく時が流れる中で,都合が許す限り,頼まれれば講演や執筆にも努めて応じてきた。知性,洗練,そんな言葉には程遠い愚直な心象風景でも,読んでくださる方があり,聞いてくださる方があるということは,まさに冥利に尽きる思いだった。本に纏めてみないかと,永年私淑してやまない,
写真12・13 「素心随想」出版を祝う会(上)
と著者謝辞(下)

鹿児島大学の井形昭弘学長の強いお奨め等あって,悔いの訪れの予感に怯えながら,厚かましくも再び,昭和63年の始め,著書「弱者の視点」を世に送った。井形学長からは,『著者は,行政マンとして極めて有能であると共に,一面行政官らしからぬ融通性と温かい心を持ち,著者の公衆衛生行政には,絶えず独特の色彩と光があった。…著書は,医のあり方を見つめ,現在の医療の持つ矛盾と欠点を鋭く突いたもので,至る所に著者の哲学とヒューマニズムとが溢れている。それは,著者の個人的な考えが,永年の経験によって円熟した結晶と言ってよい。…現在の医学の持つ社会的即面を余すところなく抉り出していると言い切ってもよい。』と過分な序文をいただいた。
 『強者の視点ではなく,弱者の視点で,ものごとを考え,行動しているかどうか…』そんな想いで,稚(おさな)くとも,ひたむきに,エッセイや論稿を紡いでみたい。そのまま本の標題を「弱者の視点」としたのだった(写真12,13)。

終末期医療
 私は,「弱者の視点」の中で,「死と看とり」の章を設け,死をタブー視している現状を憂え,いずれ誰もが避けては通れない道程を,どう迎えようとするのか。大きな課題であることを書いた。黒沢 明監督の名作映画「生きる」を引き合いにして,癌の告知の問題を取り上げ,その頃鹿児島市内で開催されたアルフォンス・デーケン教授の「死は人格形成の過程」と位置づけ,死への準備教育が必要であると説く講演も伝えた。
 銀幕に嵐を呼んだ戦後青春像の象徴,石原裕次郎52歳の壮烈な肝臓癌死。石川七郎国立がんセンター名誉総長の在宅での穏やかな最期。そして,国内でも静かに普及しつつあった生前遺書の運動,「尊厳死の宣言書」の紹介も試みた。中でも「尊厳死の宣言書」の記載に関しては予想以上に反響があった。
 そんな折,思いもよらず,天皇陛下に病魔が襲ってきた。昭和63年9月から翌年1月7日にかけての111日間,輸血量32,000ccに及ぶ激しい闘病生活の末,国民の悲嘆の中,崩御されたのだった。膵臓癌であった。そして平成元年2月24日,大喪の礼。氷雨が濡らす玉砂利を踏みながら,静かに“昭和”は去っていった。
 そしてその翌年3月末,私は鹿児島県の定年退職の日を迎えたが,翌日4月1日からは,財団法人鹿児島県環境技術協会理事長という業務が待っていた。公害・環境の測定分析,環境アセスメント,動植物など生物関連の調査,環境教育など普及啓発事業,地球温暖化防止活動推進等々…。
 そんな中で参加した京都での日本医学会総会(平成3年春)は印象的だった。ターミナルケアをテーマのシンポジウムでの発言 『現在の医療システムは,治癒改善して社会復帰できる患者のために整えられており,死に行く患者のためではない。どれだけ多くの患者達が惨めな想いの中で死んでいったのだろうか。どれだけ多くの家族が傷ついてきたのだろうか。』苦悩に満ちた真摯な告白だった。
 学会を機に,私は国内初のホスピスとして識られる淀川キリスト教病院(大阪府)を訪ねたり,ターミナルケア医として著名な専門家の講演や指導を受けた。一方,公務を離れて,ボランティア活動として,時間の許す範囲で,医療の変革を,医療者と患者との関係を,インフオームド・コンセントを,終末期医療のあり方の見直しを,尊厳死の宣言書の普及を説いて回った。
 漸く「尊厳死の宣言書」こと「リビング・ウィル」も広く認知されるようになり,熱心な善意の方々の運動もあり,リビング・ウィルを登録した人も平成7年には500人を超す広がりを見せてきた。
写真14 尊厳死協会設立総会


 会員の要望に応える形で,鹿児島県内在住の会員で構成する組織として,平成8年3月に鹿児島県尊厳死協会(後の日本尊厳死協会かごしま)が誕生した(写真14)。会長に推された私を支えてくれた,県医師会,鹿大医学部,福祉関連団体等の関係者の方々には,並々ならぬご理解とご支援をいただいた。
 この頃,県内では「鹿児島ホスピスを考える会」や,「鹿児島県議会ホスピス議員連盟」の発足等,終末期医療について考える動きが活発化してきていた。これらの動きを受けて,県行政としても,県民への意識調査や医療従事者への研修会等を内容とする「ターミナル・ケア推進事業」に取り組み始めた。これら事業の推進や検討を深めるために,県において,大学等多方面から人材を集めた「鹿児島県ターミナル・ケア懇話会」が設置され,その会長に私が推挙された。懇話会は,ターミナル・ケアをテーマとした県民フォーラムの開催や,まる2ヵ年に及んで論議された 「鹿児島県におけるターミナル・ケアのあり方について」と題した見解を纏め,県行政や各方面に提言を行うなどの活動を続けた。平成10年の春にかけてのことである(写真15)。

写真15 県民フォーラム・ターミナルケア

 日本尊厳死協会かごしまの会長を務めたのは,平成14年秋までの6年余で,引き続き,名誉会長の形で現在尚「健やかに生き,安らかに逝く」ことを願う尊厳死運動にかかわり続けている。鹿児島大学医学部の内科教授として令名を馳せ,現在,公益財団法人慈愛会会長を務める納 光弘会長,労働衛生の権威者として著名な鹿児島大学名誉教授の松下敏夫副会長他役員一同の相談役として微力を尽くしている。
 嘗て尊厳死運動発足の頃,地元南日本新聞に依頼されて小文を寄せたことがある。「終幕の主役」と題した拙文で,こう書いている。
『…漸く人のターミナルのあり方に「変革」が始まろうとしている。いずれ私にも確実に死は訪れる。身辺整理を終えたら,長い歳月私に主役を演じさせ,自分は脇役に徹してきた妻に,心からのお礼を言いたい。そして子や孫に囲まれ,私を支え続けてきた多くの友人,知人の善意と友愛に感謝しながら,励ましと,いたわりと,優しさの中で,私の終幕を閉じたい。…健やかに生きて,安らかに命の終わりを迎えたい。そう願っている多くの方々の想いが叶えられる社会の訪れを,私は予感している。』

 付記,鹿児島県保健所長会主催の研修会の為の草稿に,加筆したものである。

「公衆衛生異聞−私史・公衆衛生行政から−(前編)」は,前号第51巻第10号(通巻608号)に掲載しております。
(編集委員会)




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