 |
写真 1 港へ向かうテンダー船
|
 |
写真 2 コルサコフ港(大泊港)周辺
|
 |
写真 3 ユジノサハリンクスへ向かう直線道路
|
 |
写真 4 道路周辺の住家あまり活気が見られない
|
 |
写真 5 中心街
|
 |
写真 5 中心街
|
 |
写真 7 公園の中心に建つレーニン像(後姿)
|
サハリンは「樺太アイヌ」という北方民族の住む未開の地であった。江戸中期,松前藩に属してから間宮林蔵,伊能忠敬らの北方探検が続けられ,日露戦争の後のポーツマス条約(1905年)により北緯50度以南を日本領土とすることになった。私は一度サハリンを訪れてみたいと考えていた。かつてモスクワ,サンクトペテルブルグ(旧レニングラード)を訪問したことがあるので,狭い日本領土とは違い,遥かに広いロシアの首都と遥か地球の反対側に離れた地域が,如何に中枢に支配されているかという地域の現状を見たいという欲望を持っていた。幸いに客船の便があってユジノサハリンスク(旧豊原市)を訪れることにした。
日本との国交はギクシャクしているので正式の交通はないが,日本時代札幌に似せて建設したというユジノサハリンスクの空港に本土からの航空便があり,千歳からの便もあったそうだ。また船便はクナシリ,エトロフ島とコルサコフ(大泊港,ユジノサハリンスクの外港になっている)とに定期便があるそうだ。ただし日本政府は渡航の自粛を要請している。詳しくはよく判らない。港の規模は小さく寒々とした感じだった。我々の船は大きくて着岸できないので,船のテンダーにより分散して上陸するほかはない(写真1)。
ここで上陸する前に入国検査といってロシアビザ,通行許可証の検査がある。検査を受けるために客は各々の船室に待機しているようにとのこと。結局個人的に調べられることはなかった。1時間ぐらいかかっただろうか,上陸してもよいとのことでやっと客船から降ろされテンダー船に移された。波のうねりで揺れる中をハラハラしながら乗り移り,10分ぐらいかかって港の岸壁に辿りついた。我々が初めて目にしたサハリンの印象は「これがロシアの東の果てか!」の一言に尽きる。誠に荒涼としている,港の周囲の作業船やクレーンは赤錆びて痛々しい(写真2)。我々は日帰りの予定だったが,旅行中トイレが全く無いから必ず下船前にトイレは済ましておくようにとの注意が喧しく伝えられた。
上陸して皆が揃うと早速古い中古バスに乗る。ガイドは若い奇麗なロシア人女性だったが,ユジノサハリンクス情報大学で日本語を学んだという奇麗で流暢な日本語を喋り安心した。まずコルサコフは日本時代に「大泊」といわれ,当時の銀行が残っていたが古ぼけていて全然面影はない。町全体が何となく埃っぽい感じで,道路の舗装は全くなく,この様子は日本の敗戦直後の道路のようだった。敗戦直後,米軍進駐兵は日本の道路を見て「これは道路予定地だ」と言っていたのを思い出す。バスはガタピシ悲鳴を上げるし,驚いたことに信号機もあったかどうかも気付かなかった。街を抜けて直線にユジノサハリンスクに向かう。シラカバ,エドマツ,トドマツのジャングルを切り開いた,ただただ一直線の路だ(写真3)。コルサコフを離れると流石に道路は舗装されていた。ただし我々のいう高速道路とは感じが違う。道路の周りには時折住家が見られるが,何となく活気が見られない(写真4)。1時間ばかり走っただろうか,やっと街らしい街に入り鉄筋ビルが見られるようになった。丁度モスクワ,サンクトペテルブルグ周辺の古びた民家を見る感じだった。
近くに石油基地があり外国資本が入るため,鉄筋ビルや労働者住宅街が増え,外国人の姿も増えてきたという。次第に大規模病院,保健施設,学校などが揃ってくる。それでも街全体が漠然とふやけたような感じがする。中心街になると流石に日本とは違って道路幅は遥かに広いし区画の間隔も十分ゆとりがある,街路樹も大規模に並んで勇ましい(写真5)。街路樹は日本時代に札幌を真似て設計したそうだ。宮沢賢治が『銀河鉄道の夜』を書いたのもこの辺りのノスタルチックな雰囲気を感じたものという。私も昔,彼の生まれた村(現 岩手県花巻市)へ行ったことがあるが,なるほどそんな感じだと思った(写真6)。
街の中心に中央駅があり流石に大規模だ。この駅を見ながら10年前モスクワのシベリア鉄道がシラカバ,トドマツのジャンクルの中を通っていたことを思い出した。その正面に大規模な公園があり,花壇の花が美しい。丁度今頃が極寒季を過ぎてあらゆる花々が一斉に咲き揃う時期だとのことだった。休憩に立ち寄ったホテルも花盛りだったのは非常に印象的だった。公園の中心にはレーニンの大きな銅像が建っていた(写真7)。スターリンではなくレーニンというところに,大正末期の日本の思想界を巻き込んだ二人の争いを見たような気がした。日本では同じ銅像でも例えば「宮城前の大楠公」みたいに芸術品として見られることが多い。しかし外国は大きな銅像を建てて威圧のシンボルにしている。モスクワのクレムリン宮殿,サンクトペテルブルグもピョートル大帝銅像,エルミタージュ美術館などで威厳を繕っているようだ。日本も占領時代,樺太に当時としては大規模な官庁街を建てていた。それが今でも博物館として使われているのもあるが大分時代遅れのようだ。今回の旅は一時的,素通り的ではあるがユジノサハリンスクを見学して,この街にはモスクワみたいな歴史が全く無いのは止むを得ないと感じた。日本の占領時代があったのだから。ここは今からの街だということをつくづく感じた。
最後に,これは何処でも思うのだが旅行の際にガイドは必ず土産品店に連れ込んで買い物させる。今回も立派なホテルなどにある免税店ではなくて場末の小さな店に連れて行かれた。「ここなら円の交換もうるさくない」と言いながら交換も1,000円までという。ガイドに何か騙されたような気がする,しかしよい経験だった。
ユジノサハリンスクは今は開発途上で,埃っぽい乱雑な街ではあるが将来は歴史も育ち,モスクワみたいな系統だった立派な街になるだろう。

|