=== 随筆・その他 ===
日本列島縦断の記 〜トワイライトの旅〜
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中学時代,私は北国に憧れていた。北大寮歌「都ぞ弥生の雲紫に」を全部覚えていたこともあった。それに一つはその当時読んだ「屯田兵」の歴史に興味を持っていた所為もある。そのため,北海道には何回も行ってきた。
1.昭和初期
最初は小学4年の頃だった。鹿児島を出て関門連絡船で本州に渡り,大阪にて東京行きに乗り換えた。当時は梅田駅 (今の新大阪駅)のホームは数本しかなかったし,ホームから西の方を眺めると広い敷地が木材の集積場だったように思う。現在みたいにビル群は何もなかった。遥か西の連山に真っ赤な真ん丸い太陽が静かに沈んでいく荘厳な景色は今でも目に焼き付いている。
2.昭和40年頃
次に博多から札幌まで飛行機で日本海側の裏日本を飛んだ。富山,新潟,秋田地方は広い広い田園地帯で碁盤の目のように区切られ,各区域の片隅にはこんもりとした防風,防雪の林に囲まれた屋敷林が見下ろされて,誠に美しい幾何学的模様の風景だったことを思い出す。
3.昭和60年頃
次に仙台周りで北海道に飛んだことがある。
その頃から九州地方の道路事情は非常に渋滞しているのに,あの田園地帯を東北新幹線が盛岡まで開通していた。あの人気の少ない田舎の山の中をただ一直線に伸びている新幹線を見ると,当時鹿児島新幹線開通の悲願を鎌田県知事,二階堂政治家等がコメツキバッタのように何回陳情しても,予算がないとつれない返事しかもらえなかった。しかも政府は中国,四国間に無駄な橋を2本も通していた。鹿児島の政治力の貧困なことをしみじみと嘆いたものだった。
4.平成19年頃
次に私は客船「飛鳥U」に乗って博多から日本海を通って函館に到着し,帰りは太平洋を回って青森,仙台,串本などに寄航して瀬戸内海を通って帰ったことがある。日本列島全体を海から離れて眺め,その美しさに驚嘆した。
5.平成20年頃
今度は博多から高知,清水,仙台を通って室蘭,函館に行き,日本海側に回って秋田に寄って博多まで帰ったことがある。日本列島を回りながら名所旧跡を見物する機会があったが,日常見慣れた日本国を振り返って見ると,とても外国では味わえない歴史と景色の国であることを改めて痛切に感じた。その際,高知,清水,秋田にて懐かしい学友達が船まで尋ねてきてくれたのは法外の喜びだった。
6.トワイライトの旅
私は前々から「トワイライト」の旅を熱望していた。切符が入手困難で2〜3年ばかり過ぎてやっと予約が取れた。喜び勇んで新幹線に乗り込んだ。
午前7時,鹿児島中央駅を音もなく滑り出した「さくら542号」は,あっという間に九州管内を通過し山陽線に入っても岡山,広島など気付かないうちに午前11時30分には新大阪に到着した。全く振動もなく誠に静かなものだった。小学生の頃は古く堅い列車で24時間もかかっていたのに,まさに夢の超特急だった(図)。
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図 トワイライトの旅 路線経路
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写真 1 トワイライトエキスプレス
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写真 2 白山の残雪
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写真 3 展望車
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写真 4 日本海の夕陽
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写真 5 山陵のトドマツ林
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写真 6 遥かに手稲山を望む
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凄い混雑を抜けて北陸線の「トワイライトエキスプレス」出発ホームに辿りつく(写真1)。間もなく午後0時48分,「トワイライト」発車。
列車は海のように広い琵琶湖を右に見ながら北上して行く。長い北陸トンネルを抜けて福井の街に入る。この辺りから右側に真っ白い雪をいただいた白山の連山が見える。南国ではとても見られない荘厳な光景だった(写真2)。
列車の車掌からの説明により,倶梨伽羅峠の歴史を知る。富山に到着,右に立山連峰の白雪が美しい,チューリップの町だ。この辺りから「トワイライト」の真骨頂とかねて熱望していた日本海に沈む真紅の夕日を展望車から見ることになる(写真3)。この一瞬を頼りにこの列車に乗ったのだ。今までの曇り空がこの瞬間だけカラリと晴れたのはまさに僥倖だった。列車が左右に動くので,カメラはなかなか思うポイントが撮れない。それでも少しは会心の作が出来たと思う。心から万歳を叫ぶ(写真4)。
車内放送で蜃気楼や蛍烏賊の美しさを知る。親不知の難所は長いトンネルで抜ける。大体北陸線は11km以上のトンネルが多い。そのいずれも高度の技術を駆使しての大工事だったのだろう。この辺りでは新幹線開通の工事が大分進んでいる。九州新幹線開通の時はあんなにじらせていながら,こちらの工事が意外にスムースに進んでいるのに奇異な感じを受ける。
糸魚川・静岡間の分離線のことは聞いていた。実はこれを活断層と誤解していたのだ。地震とは関係がない。この線は明治の初め,東京電燈会社がドイツの,大阪電燈会社がアメリカの技術を取り入れて以来,50Hzと60Hzの周波数の違いを何回か統一しようとしながらいまだに成功していない。同じ日本にいながら西東で電気器具(掃除機,電子レンジ等)を変えなければならない。国家的電力不足のため東西の電気を融通する工事には1.9兆円の予算がかかるそうだ(資源エネルギー庁の報告より)。日本の歴代政治家達はつまらぬ闘争に明け暮れて,戦前戦後を通じて100年近く大事な問題の解決に何も手をつけていない。
また糸魚川がヒスイの産地だということを初めて知った。ヒスイの飾りがここから北国アイヌ民族とか出雲,難波など古代民族の歴史を飾っていたのを思い出す。
この辺りまで来ると夜はすっかり暮れてきた。酒田,秋田を通る時は大分夜も更けていた。
7.青函トンネル
午前7時,鹿児島出発以来,午後10時。15時間で青森に到着したのは驚いた。
青森では青函トンネル通過のために電気機関車を馬力の強いのに替える。私はドーバー海峡をトンネルで通過したことがあるので,こちらとどんな違いがあるのかとの興味を持って見ていたが良く判らないまま寝入ってしまった。誠に残念なことだった。
夜が明けて大沼公園を通る頃に,丁度太陽が上がって朝霧に煙る大沼の向こうに駒ヶ岳が聳え,実に美しかった。あっという間に景色は過ぎ去ってしまい誠に残念な思いをした。絶景だったのに。
この辺りから北海道の原野,荒れた沼地が広がり,開拓集落の特有な建物サイロ等が次々と目に入ってくる。山の稜線にはシラカバ,カラマツ,エゾマツなど北国に特有の林相に囲まれた,寒々とした光景は南国育ちの私には珍しく美しい(写真5)。北国特有の薄暗い空と海の色を眺めながら,列車はビルの立ち並ぶ札幌の街に入る,何となくホッとした。
8.札幌到着
午前7時に鹿児島を出発し日本列島をひたすら北上,26時間52分かけて,翌朝,終着駅の「札幌」に到着。伊能忠敬だったら何年かかったものだろうか。
今回も札幌の広い広い農園と,遥かに延びる直線道路に並ぶポプラ並木に驚き,若い頃の情熱を懐かしんだ。札幌時計台に行き,羊ヶ岡に立ち,遥か遠くに霞む手稲山を眺めて鹿児島に見られぬ豊かさを感じた(写真6)。また改めて 「屯田兵」の史跡を確かめ,日本列島縦断の旅を終えた。
年齢的にも再び当地を訪れることもあるまい。惜別の念を新たにした。

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