緑陰随筆特集

殉死 −私の太平洋戦争−
(終戦記念日に寄せて)
北区・上町支部
(日本尊厳死協会かごしま名誉会長) 内山  裕
 
写真 1 竹馬の友 橋口 寛


写真 2 人間魚雷「回天」隊長 橋口 寛


写真 3 自啓録(遺書)


写真 4 人間魚雷「回天」


写真 5 回天特攻隊の出撃
(壮途に上る回天特別攻撃隊)


写真 6 回天記念館


写真 7 魚雷発射訓練場跡


戦中派
 私の小学1年の秋,満州事変が起き,中学1年の夏には廬溝橋事件が勃発して日中戦争が始まり,中学5年の冬,ハワイ攻撃で太平洋戦争が始まった。振り返れば小中学の全てが戦争だったことになる。私自身,まさしく戦中派そのものである。
 昭和16年12月8日,霜解けの冷たい水の滲む校庭に一斉に整列して,太平洋戦争に突入したことを聞いた。あの清冽な緊張を忘れることはない。
 戦いは苛酷を極めた。大陸に,大海原に,ジャングルに,孤島に,海に,空に,果てしもなく広がった戦火は,本土にも及んできた。
 鹿児島の地も戦場であった。鹿児島市にとって呪われた日,昭和20年6月17日の深夜には,百数十機の大編隊による焼夷弾作戦によって全市が焼き尽くされた。医学生だった私は枯渇していた医療陣の中にあって,戦いに明け暮れた。私の左腕に今でも残る傷跡はあの頃,県立病院への途次,グラマン戦闘機から放たれた機銃弾の残傷である。
 そして,やがて,長かった戦いにも終焉の時がきた。見渡す限り瓦礫が続き,余燼が白く燻り,所々に水道の栓が白く水を噴き上げていたあの廃墟の中で,私は,還って来るであろう竹馬の友・橋口 寛を待っていた(写真1)。

竹馬の友の自決
 鹿児島市立荒田小学校,県立鹿児島二中と同級だった竹馬の友・橋口 寛は,海軍兵学校に進学,青年士官に任官後も交遊は続いていたし,音信の数こそ減ってはいたものの,たまに同封されていた写真の表情が気にはなりながらも,戦い終わった今,唯ひたすらに彼の帰還を待っていた(写真2)。
 そんな私のところへ届いたのは悲痛な知らせだった。自らの拳銃で胸を撃ち,その血で真っ赤に染まった海軍大尉の正装と,血と涙で綴られた遺書とに接して,ご両親の前でただ声もなく泣いた。彼の自啓録に記されている手記の一部を転記しておく(写真3)。

 「新事態は遂に御聖断に決裁されしを知る。即ち臣民の国体護持遂に足りず,突撃の精魂遂に足りず,御聖慮の下,神州を終焉せしむるの止むを得ざるに到る。
 神州は吾人の努力足らざる故に,その国体は永遠に失われたり,君臣国土一体の国体は失われたり。今,臣道臣節いかん。国体に徹すれば論議の余地なし,一億相率いて吾人の努力足らざりしが故に,吾人の代に於いて神州の国体を擁護し得ず,終焉せしむるに到りし罪を聖上陛下の御前に,皇祖皇宗の御前に執らざるべからず。
 今日,臣道明明白々たり,然りと雖も,顧みれば唯残念の一語につく。
 護持の大道に先駆けし先輩朋友を思えば,嗚呼吾人の務め足らざりしの故に,神州の国体再び還らず。
  君が代の 唯君が代のさきくませと
     祈り嘆きて 生きにしものを
 嗚呼,又,先駆けし朋友に申し訳なし,神州遂に護持し得ず
  後れても 後れても亦卿達に
     誓いしことば われ忘れめや
 昭和20年8月18日
         海軍大尉  橋口 寛 」

 悲愁の色濃い戦場にあって,唯ひたすらに祖国を守り抜こうとして,挽回の一縷の望みを必死必殺の人間魚雷「回天」に託していた彼にとって,終戦の大詔は,なんと哀しく,なんと切なく拝されたことか。死に赴いた部下,同僚に涙し,敗戦の責めを謝した彼には,最早生への選択はあり得なかったのだろう。何よりも愛した祖国に,そして父母や弟妹に,静かに決別し,遺書をしたためた彼は,愛艇の前に真っ白い軍装を赤く染めて,従容として自らの手でその命を絶った。時に昭和20年8月18日午前3時,ところは山口県平生の回天特別攻撃隊基地。橋口 寛,齢ようやく21歳。

人間魚雷「回天」
 開戦当初赫赫たる戦果をあげた太平洋戦争も,ミッドウェー海戦での挫折,ガダルカナル島撤収,山本五十六長官の戦死等々戦局は憂慮すべき展開となり,艦艇の消耗も甚大化,戦局は悪化,ついには青年士官からの血書の嘆願による,必死の兵器・人間魚雷の開発具体化に踏み切ることになる。
 当時,海軍が高性能無航跡魚雷として世界に誇った「九三式魚雷」をエンジンとして,頭部に1.55トンの炸薬を装着し,潜水・浮上・転舵自在,搭乗員自ら操縦の一人乗りの兵器「回天」は,文字通り一身肉弾となって敵艦船に体当たり,一撃もって敵艦を必沈する人間魚雷であった(写真4,5)。
 終戦直後,米軍との連絡のため,フィリピン・マニラに赴いた日本軍使に対し,マッカーサー司令部のサザーランド参謀長は,開口一番「回天を搭載し作戦中の潜水艦は何隻か。直ちに作戦を停止させよ」と命じたという。「回天」が如何に米軍に恐怖と脅威を与えていたか,を物語る証左と言えよう。
 山口県周南市大津島に静かに建つ「回天記念館」に納められている夥しい数の遺品・遺書の中には,橋口 寛君が司令宛に血書で訴えた「出撃許可嘆願書」なる長さ1.5メートル程の巻紙も展示されてあり,その純粋な祖国を思う気迫に涙を禁じ得ない。更に日夜激しい訓練に明け暮れた「魚雷発射訓練場跡」に佇めば,しんしんと碧い海原に彼の面影が浮かんできて,立ち去りがたく胸が塞がってしまう(写真6,7)。
 回天基地跡の丘の上に建てられている大津島回天碑にこう刻まれてある。

 「大東亜戦争 年ヲカサネテ苛烈ヲ加ヘ 物量漸ク乏シキヲ告ゲテ 前途暗澹タリシ時 愛国ノ至誠 弱冠ニシテ早クモ危急ヲ予感シ忠孝ノ純情 一身ヲ献ジテ狂瀾ヲ既倒ニ回サントシ 前代未聞ノ兵器 必死 必勝ノ戦法ヲ創案シテ 従容自ラ之ヲ操縦遂行セシモノ
 即チ是レ回天ノ勇士ナリ 惜シイ哉 時既ニオソク 戦勢ヲ一転セシムルニ到ラザリシト雖モ 事 敵ノ意表ニ出デテ其心胆ヲ寒カラシメ ヨク皇国ノ命脈ヲ危殆ノ中ニ護持セシモノ 其ノ功偉ナリト言フベシ ココニ回天献身ノ勇士ノ氏名ヲ録シ 以テ芳ヲ千秋ニ伝フ」

私の戦後
 あれから茫々六十有七年,国破れて山河荒れ,心を失った祖国は,それでも虚脱と混迷の中から空前の繁栄を手にしながら,再び新たな危機の時代を迎えようとしている。
 あの日,自らの手で苛烈な死を選んだ君よ,あのまま青春を凝結させた君よ,君が信じ愛したこの風土の中に生きてきて,私は君に会えたとき何を語れるのか。
 祖国のため,人のため世のために役立つ何事を成し遂げたと言えるのか。胸を張って君に語れると思えたとき,漸く私の永い戦後が終わるに違いない。その時,私の心に真の平安が訪れるに違いない。



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