緑陰随筆特集

屯田兵と西南役
中央区・中央支部
(鮫島病院) 鮫島  潤
 
写真 1 
屯田兵の旧兵舎


写真 2 
屯田兵第一大隊第四中隊本部跡の碑


写真 3 
屯田兵顕彰之像


写真 4 
農耕馬の銅像


写真 5 
拓魂碑と碑に刻まれた文字
「百年の 基を開きし 農魂ぞ
命絶やすな 先達の声」


 私は若い頃屋久島の営林署の診療所に勤務したことがある。屋久島の原生林に住む現場職員の集落の中で,まだチェーンソーのない時代に自分の体より大きな手鋸で,数日がかりで千年以上の屋久杉の大木を伐採するという,誠にダイナミックな作業の連続だった。次に霧島山麓,御池の開拓部落に勤務したことがある。ここは誠に陰惨で,寒々とした溶岩地帯の痩せた土地をこつこつと開墾して野菜(キャベツ)などを植えていた。坂道を登る農道は険しく,特に冬季になると路面が凍りついたり,雪解けで滑ったりぬるんだりして,ジープでないととても登れない山道の連続だった。一里四方に電話も無く,勿論携帯など夢のまた夢だった。診療が済むと,患者さんは家の畳を剥がして,その下から取り出した袋から治療費を払っていた程だった。国民健康保険に加入出来ない農家もあったのだ。ましてや救急車など考えも及ばない終戦直後の話だ。
 当時の苦労が身に沁みこんでいた私に,札幌の屯田兵の開拓部落を訪ねる機会があった。
 屯田とは,「たむろする」の意で平安時代の防人のようなものだ。兵士を遠隔の地にたむろさせ,平時は農耕に従事させ非常時は兵役に参加させる制度で,中国「漢」の時代に始まった。ご存知だろうけれども明治の初期,戊辰の役の戦いで官軍に敗れた会津,若松の士族たちを北海道に移住させ,幕末から問題になっていたロシアに対する護りと,ブナ,ナラなどの原始林の開墾に当たらせた制度である。島津斉彬の影響を受けた西郷隆盛の命を受けた薩摩の黒田清隆,永山武四郎などの発案によるという。維新後まだ日も浅い明治2年頃の話で,彼らの最初の開墾地となった琴以村は全く原始林そのもの,誠に険しいところだった。屯田兵の住宅も壁板の隙間から雪が吹き込む有様は,まるで私の御池時代の農家を思い出させた(写真1)。近くの屯田兵中隊本部も昔の軍隊式で誠に頑丈だが質素なもので,アメリカ開拓当時の建築を真似たものだった。私は学生時代に軍隊の激しい訓練を体験しているだけに,軍隊生活のことは心に残っていた。従って昭和30年頃,琴以村を訪ねた時は誠に感慨無量であった。
 今回,60年経って再び札幌を訪問した時に昔の琴以村を再び訪ねてみた。周辺は全く様変わりして,広々と整地された広い住宅地は内外共に美しく,街はきちんと約100m毎に区画され,庭と垣根は全く見違えてしまった。
 早速中隊本部跡を訪問した(写真2)。昔のままに良く保存されていて,館長さんの厚意で内部を詳しく見せて貰った。私がかつて感動した屯田兵士家族の土間も竈も農機具も,ここ中隊本部の館内に移築し保存されていた。私は懐かしい知人と久し振りにあったような気がした。しかし,残念ながら私はこれらが鉄筋の中でなく,野晒し農地に建っていた姿を見たかった。記念館の周囲には開拓時代の幹回り3m以上のナラ,クヌギ等の巨木の森林を開き,農地を耕す兵士の苦労の姿がセピア色の古い写真やパネルで展示されていた。私はつい屋久島開拓と霧島御池開墾の姿を重ね合わせて思うことだった。庭に出て見ると逞しく若々しい兵士の銅像が建っており(写真3),その脇には凛々しく奮い立つ農耕馬の銅像もあった(写真4)。当時荒地の開墾に馬の力は今のブルドーザー以上に欠かせない大事な存在だったのだ。何よりも互いに温かい血が通っていたことだろう。「拓魂」と記銘した誠に大きな自然石碑もあった(写真5)。当時の人たちの気合が伝わってきた。
 彼らはここで屯田兵の使命として北の護りの筈だったのに,明治10年九州薩摩の西南の役に向け急遽出動命令が下ったのだ。そして会津,若松出身者の多かった兵士たちは,戊辰戦争の際に薩摩に受けた仕打ちに対する恨みは物凄く,「薩摩憎し」と大変な活躍を見せたのだ。一方,屯田兵の将校の中に薩摩出身者が多かったので,彼らにとっては義理深い郷土の先輩同志の問題であり「同族相攻伐」の状態になったのだ。また一方,屯田兵創立の功労者であった永山弥一郎のように敢えて屯田兵を離れて西郷軍に加わる将校もいて,その心境は誠に複雑であった。それが兵の指揮に表れて屯田兵は将校より下士,兵の方が存分に働いたと激賞されたという。我々にとっては何となく身につまされる話である。しかも西南役終了後の論功行賞でも薩摩の将校は厚遇されたが,屯田兵の下士官,兵は全く冷遇されて屯田兵の中には憤激の余り切腹,または辞任して東京に帰るものも出たという。我々としても後味の悪い思いである。
 戦後の論功行賞についても黒田清隆一族の出世の経過を見ると,所謂「薩摩の芋つる」「薩摩閥の時代」があったことを知らされる。それに続いて,薩閥が暗躍した官物払い下げ問題などが政界を揺るがした。しかもその末裔が当時から非常に広い土地の払い下げを受け,大地主として暮らしていたなどと余り知りたくもない話だ。
 明治,大正,昭和初めにかけて鹿児島には西郷組と大久保組とのぎくしゃくした雰囲気が続いた。西郷さんの銅像は全県下を挙げて市の中心地に完成したが,大久保さんの銅像はなかなか建設されなかった。北海道を含めて在京組はほとんど鹿児島に帰ることはなかった。面白いことに隣同士にある西郷,大久保誕生地に石碑が立っているが,両方ともその大きさ,建設日時は同じであり,両方の碑文が名前のところが違うだけであとは全く同文であるのも両者互いに遠慮し合ってのことだと古老から聞いた。この変な感じは敗戦後まで何となく続いていたようだ。
 琴以の屯田兵の遺跡に立ち,西南役の末路を考えてまさに感慨無量のものがある。



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