緑陰随筆特集

こ れ か ら
前鹿児島市医師会病院看護部長 大坪恵利子


 今年3月31日付けで鹿児島市医師会病院を定年退職いたしました。26年余りの長い年月,職員の方々や患者さんに支えられ仕事を終えることができました。感謝の気持ちで一杯です。昭和60年8月1日の入職でしたので,開院1年余りの医師会病院はいわば「創生期」,いろいろな体制などもこれからという時期であったかと思います。そのような中,5階外科病棟に配属となり,私の医師会病院での第一歩が始まりました。
 朝仕事に行き,慌ただしく時間が流れ,夜に帰るという日々で,とても忙しい毎日が過ぎていきました。その頃は,院内の他部署のことなどほとんど知らずにいました。仕事に慣れるのに精一杯の時期であったのでしょう。当時の同僚の話を聞くと,開院直後はもっと大変であったとのことで,仕事帰りには疲れてアパートの階段で眠ってしまったとか,大みそかの夜勤では仕事が終わらずに泣きながら仕事をしたとか,日勤が終わらずに準夜・深夜を続けてしたことになったとか,大変な時期を経験してきていました。
 私自身は,5年で看護の基礎を学び,ある程度一人前になったら,田舎に帰ろうと思って働き始めた次第でした。まさか定年まで勤めることになるとは夢にも思いませんでした。忙しい毎日で,明日は「辞める」と婦長さんに言おうと思いながら出勤する時期もありましたが,今となっては全て楽しい思い出になっています。当時の婦長さんを中心として今も同窓会が年に一回開催され,当時の思い出話に花が咲いています。こうした仲間意識が希薄になってきている昨今ですが,年を重ねると大事なことだと思います。人と人のつながりが看護の基本ですから。
 退職と同時に,生まれ故郷の南さつま市に帰ってきました。退職後の就職について,いくつかお誘いをいただきましたが辞退いたしました。退職後は自分の思うことをしようと漠然と考えていました。看護師をしながらもっといろんなことに目を向ければよかったと後悔しています。遅ればせながら,これからの生きがいと言えば大げさですが,こころの拠りどころとなるものを見つけ出せればと思っています。
 田舎に住んでいると風の音や雨の音,鳥のさえずりなどが今までになく耳に入るようになり,自然の中で暮らしていることを実感しています。13年前に母が亡くなり,誰も住んでなかった家はそれなりに傷み,木も草も伸びるに任せている状態でした。勤務している頃は,週末に帰って草取りなどをしていましたが追いつかず,気になりながら鹿児島に帰るという繰り返しでした。母が丹精込めて愛おしんでいた庭に少しでも戻そうと思っています。母は娘の私が言うのもおこがましいですが,自立の人でした。父が亡くなってから一人暮らしでしたが,子供たちに頼ることなく老後を楽しんで生きていました。姉と一緒に旅行に行ったり,菜園をしたり,時にはオルガンを弾いたり,絵を描いたりして日々を送っていました。ずっと健康でいた母でしたが,最期は膵臓がんで亡くなりました。医師会病院にも入院して検査をしていただきましたが,手遅れの状態でした。日頃から,病気になったら「延命はしてくれるな,手術はしない」と繰り返していた母でしたので最期は家で看取りました。私は当時,病棟師長でしたが,当時の看護部長の計らいで看病の時間をもらえたことは幸せでした。仕事を優先するように言ってきた母でしたが,1週間休んでくれと私に言い,律義に1週間で亡くなりました。母は自分で死に装束を縫い,それに写経をしていました。自分が死んだ後にすべきことを書き出し,私たちが困らないように準備していました。89歳という高齢でしたが,明治の女だなという思いでした。
 60歳を過ぎた今,やはり人生の終わりがそうそう遠いことではないのだと考えます。自分の意志で行動できる時間はどれくらいだろう,あと10年かなと思うと,こうしちゃいられない,積極的に前向きに生きなきゃと思います。人生の最終ステージを母のように生きていくことができたらと思いながら終わりにしたいと思います。このような拙文を掲載してくださる機会をくださったことに感謝します。
 最後に鹿児島市医師会と医師会病院のますますの発展をお祈りいたします。




このサイトの文章、画像などを許可なく保存、転載する事を禁止します。
(C)Kagoshima City Medical Association 2012