緑陰随筆特集

貨幣史における加治木銭について
南区・谷山支部
(野上病院) 大山  満


はじめに
 先年,大阪を訪問した際に,大阪市北区天満の国道1号線沿いの造幣博物館を見学した。明治4年創業の造幣局正面に入る。明治創業時の発電所を博物館に改装したものである。館内には造幣局開局当初のガス燈,大時計,大判,小判などの古銭をはじめ,明治以降の我が国の貨幣,金属工芸品など多数展示してある。2階左側面の“日本の貨幣史”の掲示の中に加治木銭の四文字を見て内心びっくりしたことが今回の加治木銭検索の動機になった。帰鹿後,市内の専門店に加治木銭購入を依頼し,ほどなく洪武通宝その他を入手できた(図)。

 我が国が弥生式土器の時代から大和朝廷の下で国家として統一されるまでの過程において,中国,朝鮮の文化から受けた影響の度合いは極めて大きい。滔々として大陸から流入する文物の中に相当量の金属や貨幣を含む金属製品があったと思われる。
 中国に対し,初めて遣隋使を派遣し大陸文化の吸収に努めた。
 奈良朝から平安朝の中頃までの約250年間,“同和開珎”から“乾元大宝”まで12種類の銭貨が政府の鋳銭司によって鋳造された。これを“皇朝十二銭”又は“本朝十二銭”という。鋳造と同時に中国の制度に倣って新貨の発行の都度,旧銭と新銭の価値を1:10に定め,生じた利潤を政府の財源とした。当然厳しい物価上昇を来し,人々の貨幣に対する信頼感は著しく低下した。村上天皇の天徳2(958)年,乾元大宝が鋳造されてから,およそ600年近く無鋳銭の時代が続く,通貨の流通量は極めて少なく信認は地に落ちた。
 平安朝末期になると通貨に対する需要が旺盛となり中国銭の輸入が行われるようになった。中国では唐の滅亡以後,宋の太祖が即位した(960年)。宋代を通じ70種類の鋳銭を行い,2億貫位の銅銭を鋳造し東洋の造幣局の役割を果たすようになった。我が国の政府当局による鋳銭は中絶したまま中国による貨幣経済の時代に入った。中国の宋,元に次ぐ明の時代に入ると洪武,永楽,宣徳などの諸銭を中心に宋,元時代の古銭や私鋳銭が盛んに流入してきた。当時,我が国内には皇朝十二銭をはじめ種々雑多の銭貨がまざり混在していた。簡単な設備と原料が有れば鋳銭できる諸条件に恵まれていた。九州,中国地方西部で鋳銭されていたが,具体的産地や鋳造量はほとんどわからなかった。その中にあって唯一ヵ所,鋳銭地がはっきりしていたのが加治木銭である。
 島津氏領内の大隅国加治木郷銭屋町,即ち鹿児島県姶良市加治木町反土新町である。
 加治木銭は中国,明の洪武通宝を模して私鋳された銭をいい,背面に「加治木」の3字のうちの1字を刻んであり,多くは「治」が多い。銭種は多種多様で銭質は銅銭である。鋳造期間は諸説あるが,島津義久,義弘兄弟の天正〜慶長年間(1573〜1614年)に多量に鋳造され,寛永年間(1624〜1643年)頃まで続いた。加治木銭は貿易銭で琉球,台湾,安南方面に輸出された。大中通宝は加治木銭の一種で島津義久が慶長10(1605)年に先君貴久を祀る春日寺を建立した際に鋳造された供養銭,上棟銭である。背面は「治」が刻まれている。
 寛永13(1636)年,徳川幕府は銭座をして寛永通宝を鋳造せしめ銭座以外の鋳銭を禁止したので,薩摩藩においてもこれに従って加治木銭の鋳造と共に流通を中止した。
 鋳銭の分析については善銭である永楽銭について銅72%,鉛16%,錫10%,その他という良質なものである。
 JR加治木駅から南西に400m位の所のNTT加治木支店跡の正面に町が設立した鋳銭所跡碑がある。


図 大中通宝・洪武通宝


参考文献
『加治木郷土誌』 加治木町,1991年11月2日
『日本貨幣史概説』 久米重年,図書刊行会
『洪武及大中銭宗譜』 名古屋古銭会
『姶良地方の研究』 松山雅雄,鹿児島女子師範学校




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