小学生時代,三奇人と呼ばれるクラスメートがいた。3人の生家は村の中心部から一里ほど離れた山里に散在する集落にあった。田んぼが少ないのでお米はあまり取れず,特産品はソバだった。
3人はランドセルを用いないで白い風呂敷に文具を包み込み,腰に巻きつけてはやてのように走って学校に通っていた。
3人は何時でも一緒に行動し,教室には好きな時に飄然と現れ,また好きなときに忽然と姿を消した。そこで人呼んで三奇人と言った。
季節には飛びきり美味のグミやヤマモモの実をクラスにもたらした。彼らの山学校の成果であった。
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医学史にも奇人は少なくない。中でも次の3人が目立つ。
1.本名テオフラスト・ボムバスト・フォン・ホーエンハイム(1493〜1541)
自称パラケルスス。その由来は家名の単なるラテン化という説と古代の大医学者ケルススをもしのぐという意味だとの説があるが,おそらく両者を加味したのであろう。
スイスの山国に生まれた彼は母の死後,父親とともに錬金術師の街フィラッハで少年時代を過ごした。16歳の時ウィーンに出て医学を学び,さらにイタリアのフェラーラ大学で博士号をとった。その後イタリア,スペイン,ポルトガル,フランスの大学都市を遍歴し,さらにイギリス,北欧諸国から,東欧,地中海沿岸に及ぶ旅を重ねた。大学人や知識人と接触し,一方古典医学の講義の域を出ないアカデミズムには反発を強め,下層社会に出入りして民間療法を習得し,12年間に及ぶ放浪から帰省した頃には独特の医学を樹立しており,名医の評判が立つようになっていた。定住を願う彼に運命はさらに遍歴を強いるが,その間に多くの論文を物にする。
ようやくバーゼル大学医学部の正教授の職を得たが,旧医学に反抗し,大学では「理髪外科」「湯屋外科」などと賤業視されていた「外科学」を講述しバーゼル大学を追われる。各地の大学や都市に拒絶され著作の出版すら思うに任せない。わずかに振り向いた幸運の女神も,すぐにそっぽを向き,再び漂泊の挙句にザルツブルグの旅宿で客死した。50歳にも満たない生涯であった。アウグスブルクで出版し得た「大外科学」がせめてもの慰めであったろう。
2.平賀源内(1728〜1780)
讃岐藩,松平候のお茶坊主であったが,長崎に学ぶ。通り一遍に勉強して郷里高松に帰れば御典医にでもなり平穏に暮らせたものを,この男は本草学から何まで,当時学び得るすべての近代科学を勉強し過ぎた。大阪に出て一旗揚げようと思ったが思うに任せず,廻り舞台のからくりなど作ってその日を送っていたが,やがて江戸に逃げ出す。江戸では医者の真似事をしながら老中田沼意次に近づく機会を得,念願の物産会を開く。エレキテルの研究で名を挙げるが,やがて獄死。51歳。
3.本名ジュゼッペ・バルサモ(1743〜1795)
母方の遠縁の名をとり自称カリオストロ伯。シチリア島バレルモの生まれ。幼くして父を失い13歳の時に修道院に送られる。そこで化学と医学の手ほどきを受ける。悪童ぶりを発揮して修道院を追われる。遂には郷里バレルモを逃散する。それから足跡不明の年月を経てヨーロッパの社交界に登場する。奇蹟医としてヨーロッパ中を遍歴する。やがて山師として医師団の指弾を受け,遂には獄死する。
波乱万丈の3人の生涯を詳述出来ないのは残念であるが,彼らに共通するものは,並外れた学識と壮大な野望,疲れを知らぬ行動力であろう。世間から奇人変人といわれ詐欺師,山師とまでののしられながら自由奔放に生きた精神は不思議なまでに透明である。奇人のいない社会は寂しい。奇人は時代の夢の具現者であるのだ。
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わが親愛なる幼き頃の友,三奇人の健在を祈るや切。

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