緑陰随筆特集
与那国−牛と馬の美しい島 |
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鹿児島大学大学院医歯学総合研究科
社会・行動医学講座 心身内科学 教授 乾 明夫
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人はこれほど眠れるのであろうか。最近は,朝早く目覚めることもあり,半日以上の睡眠を続けて取るのは,本当に久し振りである。この2〜3週間,海外出張を含めて忙しかったこともあるが,誰に妨げられることのない静かな世界が,そこに広がっていた。
与那国島は,日本の最西端に位置し,台湾が目と鼻の先にある。沖縄空港や宮古,石垣へのカウンターは,修学旅行生や若い人たちで溢れていた。与那国への飛行機に乗ったのは,僕を含めて10人程度で,何人かは地元の人たちであったのは,幸いであった。若い人たちの喧騒に,ついてゆけない自分がいる。ホテルには,プールやテラスも備え付けられている。田舎と思えないような良いホテルであった。海のシーズンには,大勢の若い人たちで賑わうことであろう。人気のない海は,美しいブルーの水を湛え,波しぶきが時折見せる鮮やかな美しいその色に,息を飲まずにはおれなかった。
ホテルのカウンターのお姉さんは,沖縄系の顔立ちで,親切に色々と教えてくれた。ホテルに勤める多くの人は,地元の人たちの様で,どこかはにかみがあるところが嬉しかった。レストランは残念ながら,夜もバイキングで,僕は外に食べに行くことにした。ここしばらくは海が荒れ,漁ができていないとのことであった。とある寿司屋に入り,オリオン生ビールを飲んでいると,地元の人が黙々と食べているものがあった。“ハテ”とメニューにかかれた,カジキの腹側の身であるらしい。早速注文したが,こんなに美味しい刺身は,初めてであった。与那国はカジキが有名だと,後でホテルの人から教えていただいた。確かに昼食にも,大胆に丸ごと切り下ろしたカジキの煮物が出ていた。あの固い背の軟骨は,包丁で切れるのであろうか。軟骨の内部は,コラーゲン状に一塊になっていて,美味であった。
翌日は自転車を借りて,島一周の旅に出かけることにした。S先生の論文を持って行きながら,休息の合間に読むつもりであった。自然の中で論文を読むのは,若い頃からの楽しみである。しかし,それは幻想であるとすぐに気付かされた。向かい風の坂道を自転車で登ると,心臓はすぐにバクバクと波打ち,休息の合間はゼーゼー,ヒーヒーと,肩で息をする有様であった。運動が最大酸素消費量の60%を超え,アシドーシスを呼吸性に代償するAT(Anaerobic Threshold)を容易に超えてしまったのである。体力の低下を実感した。
舗装された道路はしかし,動物のためのものであった。道路のあちこちに,巨大な糞が見かけられた。糞を踏まないように,注意して自転車をこいで行った。自転車で走っていると,角のある大きな牛と目が合いそうになった。動物の王国に迷い込んだ感じがした。牛や馬がストレスのない環境で,のんびりと育っていた。道路の真ん中を大きな馬が闊歩し,ヒヒヒーンと威嚇された僕は,自転車で道の端を恐る恐る通ることにした。島一周4〜5時間のコースをかろうじて完走し,疲労困憊したが,充実した時間であった。夕方の空いた露天風呂で,久しぶりの長湯をした。清々しい風が心地良く,穏やかな時間が過ぎていった。その夜の生ビールは格別で,ヤシガニは南国の風情があり,美味でもあった。
先日,ミラノで第6回国際悪液質学会があった。本当は神戸で開催するはずであったが,福島原発問題で2年間先送りになったのである。ミラノはイタリア第2の都市で,12月に入り,クリスマスの美しい飾りつけがなされていた。ローマやルネッサンス時代の文化が多数残り,教会や博物館など,名所旧跡は多数あった。カリアリ大学のマントバニ教授に言わせると,イタリアに来たことがない人はpityであった。学会では,“最後の晩餐”ツアーが組まれていて,ダビンチの原画を見る機会に恵まれた。後世の画家が保存のために加筆したとはいえ,美しい出来栄えであった。キリストと共に書かれた人物模様は多彩で,美しい女性像と明るい奥行きのある窓も印象的であった。ダビンチは解剖学者でもあると同時に,エンターテイナーでもあったようで,天賦の才に恵まれた類い稀な人だったのであろう。K薬科大学のN先生は,それにしては,キリストの手が不釣り合いに大きいと指摘されていたが,如何であろうか。
ミラノの学会では,ベルジアンブルーと神戸ビーフの対決があった(図)。
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図 第6回国際悪液質学会
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ケン・フィアロン先生とジョン・モーレイ先生が,悪液質の本体が筋肉量低下にあるのか脂肪量低下にあるのか,熱弁を振るっておられた。ベルジアンブルーでは,悪液質の本体は筋肉量低下であると主張し,フィアロン先生のスライドの中では,ミオスタチンの遺伝子異常モデルが,筋肉隆々とした姿を示していた。“草食系”の動物が文字通り,雄牛のような“肉食系”の姿になるのである。草食系が流行りの世の中にあっても,確かに筋肉組織は重要である。一方,モーレイ先生は“霜降り”の神戸ビーフをスライドに示し,脂肪組織の重要性を強調しておられた。カーペンターズのカレンの透き通るような歌声に包まれて,ネズミが餌を美味しそうに食べている。それから音楽は一変し,ネズミの受難が始まった。何日か絶食をされたのであろうか,仰向けに横たわった,弱々しいネズミが登場した。ネズミは時折目の前の鉄棒を握り,必死になって腕立て伏せをしている。しかし,空腹で動けずため息をつく姿は,筋肉の限界を確かに示していた。僕はどちらかというと,親脂肪派なので,モーレイ先生にエールを送っていた。彼は言うのである。「哀れなケンよ,あなたの命は長くない」と。ダビンチが描いた美しく可憐な女性像も,確かに脂肪組織がなせるわざである。
いつぞや神戸時代に,肉屋のご主人の患者さんに,品評会で3位になった神戸ビーフを食べさせていただいた。肉質そのものが溶ける様な美味しさで,このような美味しい肉を食べたことは,生涯ただ一度切りである。神戸ビーフでは,美味しい肉質を持つ牛からクローンを作ることが,随分前から行われている。鹿児島の黒牛は,如何であろうか。僕は神戸ビーフより,鹿児島の黒牛の方が好きである。脂臭くないからである。クローン動物を作れば,種牛を保存する必要はない。口蹄疫が発生しても,種牛が途切れることはない。クローン動物にはしかし,種々の問題がある。羊のドリーは老化が進み,我々が研究していたクローンマウスは,肥満になる。また肉質には,遺伝因子のみならず,食をはじめとする環境因子が深く関わる。ワインと同じである。
寿司屋では,どなんビーフもメニューにあった。「どなん」とは,島と言う意味である。肉質は,鹿児島の黒牛と同じである。ストレスのない世界に飼育された牛は,美味しいのである。鹿児島大学農学部の研究によると,牛の餌に焼酎粕を混ぜると,柔らかく,ビタミンEを多く含む肉質を持つ牛を作ることができる。アンチエイジングに繋がる機能性食品は,これからの時代に重要である。与論島に研修に行っていたN先生は,島の人たちが,例え手足に不全麻痺があっても,畑で農作業する姿に驚いたという。適度の脂肪分を付けながら,活動し,筋肉量を保持する。これが悪液質の治療と予防に重要である。我々は確かに,生涯現役でいる必要があろう。
一つだけ残念だったのは,満天の星を見るという願いが叶わなかったことである。これは次回に取っておきたい。今日は,鹿児島からの直行便がないため,沖縄に宿泊である。最後の夜は,もちろん,オリオンビールで乾杯である。次回の癒しと自然の旅に。

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