=== 随筆・その他 ===
主役・脇役・いのち
−日本尊厳死協会ながさき・平成23年度総会講演会−
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北区・上町支部
(日本尊厳死協会かごしま名誉会長) 内山 裕 |
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はじめに
日本尊厳死協会ながさきの会長,釘宮敏定先生(長崎大学名誉教授・長崎労災病院名誉院長)から珍しく一通のメールが届きました。尊厳死協会ながさきの総会における講師として招聘したいので是非引き受けて欲しい,そんな依頼でした。重荷なのでお断りしようと考えたのですが,釘宮会長の学者らしい風貌と温容とが頭に浮かんできて,ご期待には沿えないだろうが引き受けましょう,と応じたのでした。
竹馬の友の殉死(スライド1)
たびたび話したり書いたりはしているのですが,小学校・中学校と学ぶのも遊ぶのも共に過ごした竹馬の友,橋口君の最期だけは話しておきたかったのです。
海軍の道を選んだ彼は,先の大戦の末期,人間魚雷「回天」の隊長として敗戦の大詔を拝したのでした。幾多の部下や同僚を死に赴かせた彼には,最早生きる選択はあり得なかったのでしょう。海軍大尉の正装を自らの血で真っ赤に染めて,愛艇の中で従容として自決したのでした。時に,昭和20年8月18日午前3時,齢ようやく21歳。残された遺品・自啓録の中に血書の遺書があります。
君が代の 唯君が代の さきくませと
祈り嘆きて 生きにしものを
後れても 後れても亦 卿達に
誓いしことば われ忘れめや
戦後は終わったと言いますが,私にとっては未だ戦後は終わってはいません。友,橋口君の「いのち」は,今も私の中に生き続けているのです。
地域保健活動の最前線と水俣病(スライド2・3)
私は友,橋口君の死に応えるためにも,世のため人のため,公のため,直接役立つ何事かを成し遂げたい,そんな想いから,公衆衛生医の道を選びました。
昭和25年から,県下各地の保健所長など地域の最前線,更に県庁課長・衛生部長などを歴任しましたが,その間,私が懸命に学んだものは,果たして何だったのでしょうか。
離島・僻地・農山漁村の暮らしの中にこそ,公衆衛生の,行政の教科書が存在することを教えられた私は,ハブ対策・フィラリア等風土病・食生活など生活改善・結核対策等々と情熱を注ぎながら,県民の暮らしの中から発想することの重みを感じていました。
そんな私が昭和45年の夏,水俣病と出会うことになります。水俣病患者宅訪問の衝撃は,公害の原点と呼ばれる惨劇が,それは公衆衛生医の背負わなければならない十字架であることを問いかけていました。私には「負の意識」がありました。
皇后陛下と「でんでん虫の哀しみ」
医師は,とりわけ公衆衛生医としての私の命題は,弱い立場の人の痛みがわかるかどうかに懸かっていたと言えます。
天皇・皇后両陛下が,皇太子殿下・妃殿下の頃,鹿児島・指宿と随行して,気品のある優しさに直接触れる機会を持てた私は,今回の東日本大震災の被災者をお見舞いなさる両陛下のご様子に,皇后様の嘗てのご講演「子供時代の読書の思い出」の中で触れられた,新美南吉の童話「でんでん虫の哀しみ」を思い浮かべています。
一匹の小さなでんでん虫が,ある日,自分の背中の殻に哀しみがいっぱい詰まっていることに気づくことから物語が始まります。そして,やがて,哀しみは誰でも持っているのだ,ということに気づきます。自分だけではないのだ,哀しみをこらえて生きていかなければならないことを知るのです。
皇后様の心に,「何度となく,思いがけないときに記憶に蘇って…」と話されています。
生きている多くの人が,それぞれ自分の背負っている殻に哀しみをいっぱい持っていることに,私達は気づいて生きているのでしょうか。
主役は誰なのか
医療の本質は優しさにあるのではないでしょうか。気づきから生まれる他者への優しさが求められているのではないでしょうか。
医療現場の主役は誰なのでしょうか。医療者と患者との関係は,主役は誰なのか,脇役は誰なのか,考え直してみるべきでしょう。
肉体に,心に,何らかの傷を持った人の痛みを,自分の痛みとして判るかどうか,強者の立場ではなく,弱者の視点で,考え,行動しているかどうかが,問われているのです。
「患者」という字は,心に串が刺さった者と書きます。心に刺さった串を抜いてあげるのが医療なのです。
看取りの「看」の字は,手と目で成り立っています。看護師の手は,物を運ぶための手ではありません。患者に当てるための手,励ましのために患者の手を握るための手なのです。目は,患者の様子を見,患者と視線を合わせて訴えを読み取るためのもので,点滴のスピードを見るだけであってはならないのです。「傾聴」と「受容」が重要であり,立ち止まってみる必要があるのではないでしょうか。
終幕の主役
人生の終幕で,死に直面している患者本人が,主役を演じきっているのでしょうか。
医療監視下で,家族と話も出来ない閉ざされた孤独死が,多いのではないでしょうか。
患者や家族にとって,最も大切であるべき人生最後の時間を,医療者が一方的に独占してしまっている現実はないでしょうか。いよいよ最後の時には,家族こそが死に行く者と共にあるべきであって,病室から出て行くべきは,むしろ医療スタッフではないでしょうか。
医療者が口にする,最善を尽くしたとは,主役を演ずべき患者にとって,果たして最善なのでしょうか。
私の若い頃の看取り,忸怩たる思いです。安易な励ましの態度で寄り添っていたのではなかったのか。弱音を吐きたい患者に「あなた死ぬ人,私生きる人」と接するのではなく,「あなた死ぬ人,私もやがて死ぬ人」と,共感と受容が必要だったのです。
キュアからケアへ(スライド4)
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スライド 4
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スライド 5
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超高齢社会の今は,病人が増えていると考えるのではなく,増えているのは加齢に伴う障害だと考えるべきでしょう。
基本的には,癌は遺伝子の老化,つまり障害として発生すると考えると,高齢者の癌は闘う相手とばかり考えるのではなく,共存する相手と位置づけた方が適切ではないでしょうか。心疾患,脳卒中は動脈硬化が原因,つまり血管の老化と考えられ,さらには,多くの人が心配する認知症も,脳の老化と考えられるので,障害と言えます。
今問われているのは,病院での病気としてのキュア重点の医療よりも,障害を持っていても地域で生活できる医療,ケア中心の医療,介護重点の医療,在宅医療ではないでしょうか。終末期医療も,長寿を目指し延命措置を考える医療から,天寿を全うする医療・ケアへ,自然死・尊厳死を考える医療へと変革していくべきではないでしょうか。
「いのち」(スライド5)
安らかな死を迎えた人の共通点は,生かされている,何か絶対的なものに自分は生かされているという気持ちを持つことのようです。
人間の躰は,約60兆個の細胞から成り立っています。60兆個の生命体の宿主が人間であり,その人間の宿主が地球であり,と考えていくと…最後の宿主はいったい何でしょうか。宇宙万物の根源の世界,無限の生命力…人はそこに「浄土」とか「天国」とかをイメージしたのではないでしょうか。自分が宇宙万物の一部として生み出され,生かされていることを実感し,そのことを感謝するということではないでしょうか。
人間とは,「からだ」と「こころ」と「たましい」との3つからなる大自然の一部分であると,私は考えています。「モノ」としての人間が死んだことは,人間の全てが消滅したことではありません。「モノ」でない「いのち=自分=たましい」はパートナーであった「からだ」,「こころ」と別れて,無限の万物生成の根源の世界へ還っていくのです。或いは「千の風」となって…。
アメリカの哲学者レオ・バスカーリア博士作「葉っぱのフレディ−いのちの旅」が描く「いのち」の循環について考えて結びとします。
講演を聴いて
−日本尊厳死協会ながさき会長 釘宮敏定−
(日本尊厳死協会九州支部のホームページに掲載された感想文です)
日本尊厳死協会ながさきの平成23年度総会・公開講演会は,平成23年4月23日,長崎市立図書館に日本尊厳死協会かごしまの内山 裕名誉会長を迎えて開催されました。内山名誉会長の講演の概略を纏めてみました。
内山 裕先生は大正14年,鹿児島市のご出身,鹿児島医学専門学校をご卒業後,昭和25年から40年間に亘り,公衆衛生・環境行政に従事,鹿児島県下の各保健所長,県環境局長,県衛生部長等を歴任されました。演題の「主役・脇役・いのち」は,医療,特に終末期医療における主役は患者さんであるべきで,医療者ではないという思いが込められています。
美智子皇后が,折に触れてお話になった童話「でんでん虫の哀しみ」(新美南吉作)にあるように,人はみな,背中に人生の哀しみをいっぱい背負って生きている。医療者はそのことに気づき,常に弱者の視点に立って,患者さんに接することが大切である。医療の本質は,そうした限りない「優しさ」の中にある。先生は,こういう医師としての熱い思いを,奄美,水俣などにおける地域保健活動の体験を交えながら,聴衆の一人一人に語りかけるような口調で話されました。
先生の医療の原点は,竹馬の友の自決という衝撃的な出来事でした。人間魚雷「回天」の隊長であった橋口大尉は,多くの若い部下を特攻攻撃で死なせた責任感から,終戦直後,部下の遺族全員に手紙を書いた後,愛艇の中で自らの命を絶ちました。内山先生は,何時の日か,彼に再会するときに「自分はこう生きてきたよ」と伝えられるよう,誠実に,公衆衛生医一筋の人生を歩いて来られたのだと思います。鹿児島県に尊厳死協会を創設されたのも,先生にとっては特別のことではなく,日常の,医療奉仕活動の延長線上にあったのでしょう。
「いのち」について;人間は約60兆個の細胞から出来ており,その一つ一つが自分の一部である。ということは,その60兆個の生命体の宿主が人間であり,その人間の宿主が地球,地球の宿主が宇宙である。そう考えるとき,最終の,大いなる宿主は一体何だろう。先人達は,そこに「浄土」,あるいは「天国」という答えを見出したのではなかろうか。
また,人間とは「からだ」,「こころ」,「たましい」の3つからなる自然の一部であり,「モノ」としての人間が死んだことは,人間の全てが消滅したことではない。「モノ」でない「いのち=自分=たましい」は,パートナーであった「からだ」,「こころ」と別れて無限の世界に還っていく,というご自身の死生観を語られました。
最後に,「葉っぱのフレディ」(レオ・バスカーリア作)の話の中で,大きな葉っぱのダニエルがフレディに言う「死んで終わりなのではない,いのちは他のいのちを生かし続けながら,永遠に循環している,それが<いのち>である」と言う言葉で,話を締めくくられました。
講演会終了後提出されたアンケートの中から2,3のご意見を紹介しておきます。
1.60代女性,福祉関係職,非会員;内山先生は語り口がソフトで,最初の親しい友の死の話から,ご自分の信念に基づいて地域医療にかかわられたこと,「でんでん虫の哀しみ」のお話,水俣病にかかわった医師としての悲しさ・つらさ…。今日はいいお話を聞けて幸せでした。
2.60代女性,看護師,会員;ご高齢にもかかわらず,心にしみるお話が聞けて感動しました。明日も鹿児島の総会とお忙しいのに遠路おいでいただき,心から感謝申し上げます。先生のように優しく美しく年を重ねていきたいと思っています。
3.50代男性,一般人,非会員;私の息子は理学療法士をしていますので,今日の講演内容を話してやろうと思います。「終幕の主役は誰なのか」,改めて考えさせられました。息子にも,「患者に優しい,患者が主役の医療」を目指して欲しいと思いました。ありがとうございました。

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