=== 随筆・その他 ===

昭和天皇と自然薬草の森


北区・上町支部
(日本尊厳死協会かごしま名誉会長) 内山  裕

感動の五月
 緑に包まれた史と景の地霧島山麓に,昭和天皇のご臨場を仰ぎ,「21世紀へつなごう輝くみどり」のテーマのもとに,第35回全国植樹祭が開催されたのは,昭和59年5月20日のことだった。
 その前日,5月19日,霧島の山並みの一角「鹿児島県自然薬草の森」に昭和天皇のご視察があった。ご散策に供奉し,ご説明の機会に恵まれたあの日の感動を,私は生涯忘れることはない。

薬草園の天皇陛下 
−南日本新聞(昭和59年6月10日)掲載−

 夜半,薩摩路を激しく濡らした島津雨は,いつの間にか小降りになり,やがて雲の切れ目から碧空を覗かせ始めていた。
 5月19日の昼,自然の見せた見事な演出の中,当時鹿児島県衛生部長の職にあった私は,霧島の山並みの一角に誕生したばかりの自然薬草の森の入り口に立っていた。
 予定の時刻と寸秒の狂いもなく,新緑をよぎって,2台の白い先導車が視野に入ってきた。
 オープンの重厚な前駆車に続き,音もなく,菊の御紋章の御料車がすべってきた。
 張りつめた空気が,薫風の中に流れた。
 入江侍従長のあとから,天皇陛下が静かに降り立たれた。出迎える私に,軽く会釈なさる陛下の気品の銀髪と,グレーの明るい背広が,新緑の中に絵のように映えていた。
写真 1 昭和天皇の御側にいて


 薩摩藩の医学や薬草の歴史は古い。19代島津光久の創設になる山川薬園は,当時幕府の開いた江戸・京都の薬草園,尾張藩の薬草園に次ぐ古いもので,27代斉興の頃編纂された「三国名勝図会」には,旧薩摩領の薩摩・大隅・日向の三国の自然,物産等の記載,とりわけ薬用植物,生薬の記載が詳しい。当日陛下をご案内申し上げたのは,「三国名勝図会」を参考に,当時栽培されていた薬草2万本が植栽されている歴史見本園である。
 歴史的背景を交えた私の説明を聞かれながら,薫風が頬をなでる中で,陛下の表情は一段と明るさを増しておられた(写真1)。
 360年ほど前,明の国から薩摩に亡命した医人 何欽吉(カキンキチ)が初めて見出した日本特産のチクセツニンジン。
 胃腸薬の原料として,県の奨励作物にも指定されているガジュツ。
 古くは,サツマサイコとしてその品質の良さが知られ,いまも漢方処方の7割にまで使用され,最近は肝臓疾患,アレルギー体質,神経症などにその薬効が注目されているミシマサイコ。
 私の説明に,陛下はある時は大きく頷かれ,ある時は軽く相槌を打たれ,そして屡々歩みを止められては,学者陛下の博識の一端を交えたご下問があった。そこには自然のお好きな,若やいだ,にこやかな陛下の素顔があった。
 薬草の森のシンボルツリー桑の木については,是非申し上げたい意味があった。
 漢方医学の聖典「傷寒論」の基礎となった本に「素問」という古典がある。中国医学最古と言われ,約2300年前に書かれたという。著者は不明であるが,医学原論の性格を持つこの本の全編を貫くものは,自然と人との調和論である。そして「素問」の“素”という文字は,古書によると,蚕が一筋ずつ絹糸を垂れる形だという。自然薬草の森の心は,自然と人との調和でなければならないとの思いが,「素問」の心を表す蚕を養う桑の木に繋がった。芝生広場に植えた桑の木には,そんな願いが込められている。
 「自然と人との調和が薬草の森の心でございます」と申し上げたとき,陛下は満足そうに大きく頷いておられた。
 径に小さく綻ばせた紫の花に目を留められた陛下が,キランソウにも薬効があるのか,とお尋ねになった。民間薬として,鹿児島では「医者知らず」と言っているし,また「地獄の釜の蓋」という別名もあることなどお答えすると,陛下は愉しげに,それはどんな意味かと重ねてお聞きになった。そこには天真爛漫の美しい陛下の素顔があった。
 立ち去りがたいご様子の陛下から,自然との適応,植生には十分配慮して育てるようにと,学者らしいご助言まであった。
 予定の時刻はもう過ぎていた。御料車に乗られる折り,見送りの私にお言葉があった。「いろいろ有益な話を聞かせてくれて有り難う」。激しい感動が私の身内に流れた。
 やがて静かにお列は,深い緑のカーブを曲がって,私の視野から消えていった。感動に包まれたまま,私は新緑の中に,何時までも立ち尽くしていた。

ご説明草稿原文
 天皇陛下ご視察に際して,ご説明のために作成した原稿原文を以下に記しておく。

1.はじめに
 自然薬草の森をご案内いたします(写真2)。
写真 2 自然薬草の森をご案内して


 この薬草園は面積約5.3ヘクタール(約1万6千坪)ございます。地方自治体の持っております薬草園としては,全国一の規模でございます。地形はご覧の通り,陽当たりの良い丘,日蔭の斜面,湧水の流れなど多様な植物が育つ環境を備えております。
 この薬草園には,約300種8万本が植栽されておりますが,特に珍しい植物を集めたと言うわけではありません。本県に自生しています植物を手近に観て,自然環境と植物の適応を観察すると共に,薬用植物の正しい利用を普及することを目的と致しております。

2.歴史見本園
 只今からご覧頂きます歴史見本園については,こちらに簡単な案内板がございます。
 書いてありますように山川薬草園が最も古く,1659年島津家19代光久の時に設けられました。当時,江戸・京都・尾張に次ぐ全国で4番目に当たるものでございます。
 山川・佐多・吉野等の薬草園には,薩摩半島の南端にあります山川港を通じて,中国をはじめ,東南アジア,ヨーロッパ等から種々の薬用或いは鑑賞用の植物が入ってまいりました。これら3つの薬草園は,いずれも明治4年(1871年)の廃藩置県の際,廃止されました。大隅半島南端にある佐多薬草園だけが,僅かに旧態を残しているに過ぎません。
写真 3 陛下にご説明する


 案内板に書いてあります「三国名勝図絵」は,全部で60巻,天保14年(1843年)27代島津斉興の頃,編纂されたもので,郷土地理誌の原典でございます。旧薩摩領の薩摩・大隅及び日向の三国の自然・寺社・物産等について,詳しく書かれておりますが,その中に,多くの薬草植物,生薬が薩摩藩の特産物として挙げられております。
 この歴史見本園は,三国名勝図絵を参考にしまして,当時栽培されていた薬草,125種,約2万本を植えてございます(写真3)。

3.チクセツニンジン
 こちらのチクセツニンジンは,日本特産のウコギ科の多年草で高さ約30センチ位になりますが,ご覧の通り,根茎が横に長く伸び,竹のように所々に節があるところから,このように名付けられたと言われております。なお,ひと節が1年の成長に当たります。
 隣に置いてありますオタネニンジン,一般に朝鮮人参とか,高麗人参とか呼んでおりますが,こちらは滋養強壮薬として有名でございます。一方チクセツニンジンは,健胃,去痰の効果が広く知られており,多くの漢方処方に使われていますが,最近,その強い消炎作用が注目されております。
 実は,このチクセツニンジンは,江戸時代に薩摩で初めて薬草として発見されたものでございます。今から約360年程前の寛永の頃,明の国の何欽吉という医者が,薩摩藩に亡命し,この人は間もなく日本に帰化するのですが,亡くなる(万治元年)までの30年余り,薬草を採取していました。この人が,当時明国で薬用として珍重されていましたオタネニンジンを見つけ,根を掘り起こしましたところ,全く違っていたので吃驚したそうでございます。後に薬草としての利用法を教え,これが薩摩人参の名で広く用いられるようになったと言われております。

4.ガジュツ
 こちらのガジュツは,インド・ヒマラヤの原産のショウガ科の多年草で,高さ1〜1メートル半位にもなります。根茎はご覧の通り広卵形に肥厚いたします。
 このガジュツは,江戸時代に琉球を経て種子島に移入され,胃腸薬の原料として栽培されたと言われております。当時栽培されていたものが,その後野生化して,種子島や屋久島に繁殖したものでございます。
 屋久島に自生していましたガジュツについて,研究が進められ,昭和8年に胃腸薬として「恵命我神散」という名称で製造が始まりました。ガジュツの根を粉末としたものに,ツワブキとコンブの粉末を加えたものでございます。胃腸薬として好評でございまして,昭和47年には,現地の屋久島に製薬工場が完成しまして,既設の工場と合わせて,現在年間約15億円の売り上げを上げるまでに伸びてきております。
 県としましても,昭和52年には奨励作物として指定し,現在,屋久島・種子島両島で約95ヘクタール栽培されております。

5.ミシマサイコ
 こちらのミシマサイコは,セリ科の多年草で,高さはおよそ1メートル位になります。本来,火山灰土壌が適地と言うこともありまして,鹿児島では古くから生産され,「サツマサイコ」の名で呼ばれ,その品質の良さが広く知られておりました。ところが,江戸時代,伊豆地方をはじめ各藩のサイコが東海道の三島に集荷され,旅人が三島の宿に立ち寄って買い求める習わしだったそうで,広くミシマサイコと呼ばれるようになった,と言われています。
 根を乾燥したものを薬用としますが,漢方処方の7割にまで使われており,感冒,気管支炎,肝炎等に用いられます小柴胡湯など有名でございます。最近,肝臓疾患の増加が問題となっておりますが,慢性の肝臓病に対する効果や,その他アレルギー体質改善,更には神経症など,その効能が注目されております。
 実は,昭和49年の所謂オイルショックの折り,その殆どを輸入に頼っています漢方薬,とりわけサイコが暴騰し,入手困難となってしまいました。「漢方興りて,原料枯渇する」と,学会等でも問題になりました。この薬草園設立構想が動き始めたのは,そのような背景が原因のひとつとなっております。

6.桑(シンボルツリー)
 あちらの芝生広場のところに,桑の木が植えてありますが,桑の根の皮を「桑ソウ白ハク皮ヒ」と呼び,不老長寿の効能があるとして,古来珍重されてきました。現在,利尿作用,血圧降下作用が漢方薬として使われております。
 実はこの桑の木は,当薬草の森のシンボルツリーでございます。
 現在,漢方医学の聖典とされている「傷寒論」という書物がありますが,約1700年前,長沙の太守であった張仲景が著したものでございます。なお,長沙市は,鹿児島市とは姉妹都市のお付き合いがあります。この「傷寒論」の基礎となりました書物に「素問」という中国医学最古の古典がございます。「素問」という書物の著者は不明ですが,およそ2300年前に書かれたと言われています。医学原論の性格をもつ書物で,全編を貫くものは,自然と人との調和論でございます。「素問」の素は,素朴の素という文字ですが,この文字は蚕が絹糸を一筋ずつ垂れる形だと言われており,元のままという意味でございます。
 薬草の森の心は,自然との調和でなければならない,との願いを込めて,蚕を養う桑の木を,いわば原点として植栽したものでございます。

7.キランソウ
 あちらに紫の花をつけていますのは,シソ科の多年草,キランソウでございます。民間薬としてよく知られていまして,鹿児島では俗に,「医者知らず」とか「地獄の釜の蓋」とか呼ばれています。
 草全体を薬用としまして,咳止め,去痰,或いは解熱,下痢止めなどに用いられております。

8.植栽計画
 ご覧頂きました歴史見本園の他,あちらの斜面から上に主として半陰・半陽植物,向こうの丘の上に陽性植物,向こうに池がございますが,そちらに水性植物,湿性植物,こちらの道路を隔てて林間植物などと,出来るだけ多様な植栽を進めつつございます。

9.おわりに
 当薬草園は,ご覧頂きましたように,完成したばかりでございます。まだまだ森の形態を成すに至っておりませんが,薬草や漢方に関する県民の関心も高まってきております。
最新医学の進歩,医療技術の高度化は,人生80年時代を可能と致しましたが,一面医学が,非人間的な医療へ傾斜しようとする危険性はないのか,と言う反省も今求められております。そんな背景の中で,漢方医学,東洋医学が,最近新たに見直されてきております。
 陛下の行幸を記念としまして,この薬草園を,21世紀へ向けて,素晴らしい自然薬草の森に育てていく覚悟でございます。
 ご視察いただき誠に有り難うございました。

昭和天皇御陵(武蔵野御陵)に詣でる
 時が流れて平成10年の秋,私は武蔵野を訪ね,昭和天皇の御陵の前に額づいていた。その時頭を過ぎっていたのは,昭和59年当時の宮内庁,水町 治行幸主務官から頂いた書簡であった。その文面にはこう書かれてあった。
写真 4 昭和天皇御陵・武蔵野御陵に詣でる


 「・・私は,陛下行幸の供奉責任者として各地にお伺いし,多くの「ご説明者」とお会いしましたが,陛下との出会いの場において,いまなお印象に残るのは,梅棹国立民族学博物館長,内山鹿児島県衛生部長のお二人です。いま,御著書を拝見し(筆者注・拙著「素心随想」),戦前,戦中,戦後を通じてのお心の中の一部を知り,奥行きのある,しかも自然で人間味溢れる,陛下との接し方のおできになる根源が分かったような気がいたします。・・」
 御陵の前に額づく私の胸中を,あの日の感動がとめどなく波紋を広げていった。あの日,あの時,薫風が頬をなでる中で,何時しか肩の力が抜け,自然体になり,無心になっている自分,そして,微笑まれた陛下のご表情,心優しいお言葉,全てに心が洗われている自分を想い出していた。
 あの日,限りなく神に近い存在の御側に私はいたに違いない。
 やがて,暮色が武蔵野を包み始める中,私は何時までも御陵の前に立ち尽くしていた(写真4)。





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