=== 600号記念特集 ===
600号に寄せて
私 と 医 報
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第10代医報編集担当理事
(東区・紫南支部 鹿児島市医師会病院) 有村 敏明
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鹿児島市医報通巻600号おめでとうございます。心よりお祝い申し上げます。私の医報に携わった期間が14年間と長きにわたっている事に少々驚きを覚えています。14年間も末席を汚していたのかと思いますと汗顔の至りです。今回,現医報担当理事から当時のことについて執筆せよと御下命を受けましたので,あやふやな記憶を頼りに少々書かせていただきます。
私が医報に携わったのは平成6年の医報編集委員からである。当時の編集委員の構成は編集委員長に内宮禮一郎先生,副編集委員長に服部行麗先生,荒田弘道,愛甲俊,野元 茂,蔵屋一枝,伊東祐久各先生そして私の計8人であった。編集委員会開催は現在と同様,定期的に毎月初めの月曜日であったと記憶している。編集委員会の内容は前月号の反省と今月号の問題点を検討し,重要な事柄については時期を移さず対応する事が了解事項であった。もっとも,この頃は内宮編集委員長が毎号,毎号厳しく校正をなされており,大きな対応は殆どなかったと思っている。しかし,その分事務局の担当者は難儀であったと推察される。内宮先生の医報に対する考え方はとてもはっきりしていて,「医報はその時の執行部に対し常に対峙するべきものである,執行部に距離を置きシニカルに対処するものである」と常々言っておられた。しかし,この頃の編集委員会はアット・ホーム的な雰囲気が流れており,若輩者の私も色々な考えを臆面無く述べることが多々あったと記憶している。私はこの編集委員会の出席が大変楽しかった事を覚えている。平成8年からは編集委員長に服部先生,副委員長に松本清志先生が担当された。更に平成10年からは私が副編集委員長の担当となった。服部先生の編集委員長時代には会員がもっと読んでくださる医報を目指して医報の内容に検討を加えた事を記憶している。この頃始まったものでは「医療トピックス」,「私の趣味」などであると記憶している。もしかしたら間違っているかもしれない。私の趣味はその後リレー随筆に変わったと思う。またこの頃から古庄先生による「切手が語る医学」シリーズが始まった。毎回,殆ど休まず誌面を飾っていただき,先生の趣味の深さに感心していた事を思い出す。服部先生のあと,伊東先生が編集委員長を2年間されたが,この時に「鹿児島市医報」通巻500号記念特集号を発刊することとなり,今回と同様な企画を組んだ事を思い出す。伊東先生がとても苦労されていた事が思い出されるが,副担当の私は十分なお助けが出来なかったと記憶している。この事は次の年編集委員長になってから伊東先生のご苦労を肌で感じた次第である。その後,私は1年間編集委員長を担当させていただいたが,この頃から中野一司先生,柳 悦朗先生,南 武嗣先生,下川優子先生,植松俊昭先生,大西義孝先生など若手の先生が編集委員に加わり,更に自由闊達な雰囲気での委員会が開催されていった。中でも一度議題に上がったことのある医報表紙のデザイン変更がこのメンバーの委員会で熱心に討論された。一度は変更しようと委員会で考えがまとまり,会員にアンケートを出して会員の考えを聞いたのだが,やや賛成と圧倒的な賛成は得られず,当時の顧問的存在の内宮先生に相談した。先生は「温故知新(多分)」と述べられ(私の記憶はあやふやだが)否定も肯定もされなかった。その時の委員会ではまた時期を見て検討しようと結論を先送りにした。この件に関しては現在までそのままである。平成17年からの3年間は福元,宇根両先生の下で副編集委員長として医報に携わった。この頃の編集委員は医師会のホームページ改変の仕事も加わって結構忙しかった事を覚えている。
以上,乏しい記憶をたどりつつ書きました。私が医報編集に携わった中でもっとも印象に残っている事は内宮先生の医報に対する考え方で,ストイックな姿勢であります。この姿勢は今後の鹿児島市医報にも脈々と続く流れであろうと思います。先生が仰ったと認識している「温故知新」という言葉,まさしく医報の源流と思っています。今回執筆の機会を与えていただき誠に有難う御座いました。

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