=== 600号記念特集 ===
祝 辞
鹿児島市医報通巻「600号」に寄せて
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鹿児島市医報が創刊以来通巻600号を迎えた。一体どのくらいの年月,1回も休むことなく,その時代を描き,医療の現場を見つめ,会員間のきずなを深め合うという役目を果たしてきたのだろうか。
鹿児島市医報が産ぶ声を上げたのは昭和37年3月だ。私はその4月,高校に進学した。当時は医師ではなく,パイロットになりたかった。それもかなり強い願望だった。だが,視力が低下しはじめ,メガネをかけざるを得なくなった。視力がいいというのがパイロットになる必須条件だっただけに,諦めた時のショックは相当なものだった。結果として父の跡を継いで小児科医になったのだが,私の高校入学から半世紀を経過した今も,表紙に桜島が描かれた鹿児島市医報は変わりなく,会員の心を結び,社会との接点を型づくる貴重な出版物であり続けている。
創刊号から600号に至るまでに,初代編集担当の島本 保市医師会長(当時)をはじめ多くの医師が時に悩み,時に喜びを感じながら,編集を続けてこられたこと,またその情熱にはただただ感服するばかりだ。
今も息づく島本イズム
鹿児島市医報には今も創刊時の「島本イズム」を見ることができる。創刊号のあいさつの中で島本会長は次のように述べている。「医師会執行部が研究,調査,立案,計画した方策を広報し,発展させる信念と努力が必要なことは論をまたないが」としたうえで,「他面その過程において,会員の意見を聞き,批判を受けることは最も望ましいことである。中略。既に県医師会報はあるが,地域医師会の会報には,自身,独自の持ち味と使命がある筈である」。
まさにその通りだと思う。島本会長の考え方が現代になっても少しも色あせず,新鮮に映るのはなぜだろうか。きっと,地域の医師会員のために医師会はなにができるのかを,考え続けておられたからだろう。批判を受け入れ,文化の向上をめざす自由な誌面は今も健在だ。
鹿児島市医報の歴代編集担当者のなかで,強烈な印象があるのは,七代目の内宮禮一郎先輩だ。県医師会報の編集委員となられた先生は我々に対して「会報を単なる報告だけのものにするのか,娯楽性のあるものにするのか,どちらに重きを置くのだ」と指摘された。また具体的には,空いたスペースの使い方や,余白がいかに大切かを教えていただいた。厳しく気合を入れられカンカンガクガクの議論もしたが,会報に対する深い愛情が感じられた。
誌面改革へ試行錯誤
私は県の医師会報で第10代目の編集委員長を務めた。あまり読まれないとされた会報を,会員にどう読んでもらうかに腐心した。内部の人ばかりでなく,外部の人の論説を取り入れ,会報の入り口をもう少し柔らかいものにしたいと考えた。また地域住民,患者,自治体関係者などから,医師会に対する意見,苦情,疑問などを聞き出し,記事にしたらどうだろうと思案した。
編集を担当する医師は皆同じようなことを考え,悩む。すべての会員に読んでほしいという願いは,永遠のテーマなのかもしれない。鹿児島市医報においても同様で,誌面改革への試行錯誤は今も続けられている。
会員の心の拠りどころ
IT時代とはいえ,記録性にすぐれ,人の心を動かし,会員のきずなを深めるものは活字の躍る会報だと信じている。ある会員が考古学に深い造詣があり,そこらへんの専門家よりずっと見識のある見方をしておられるのを,会報への投稿で知り,人に出会える場所,会員間の距離が近くなる役目を果たしているのが会報だと強く感じたことがあった。
鹿児島市医報がこれからも会員間の心の拠りどころであり,医療の現状や未来への展望を発信し,論じあえる存在であり続けることを切に願い,通巻600号発行を心からお祝いする。

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