=== 新春随筆 ===
信 濃 路 に 秋 を 訪 ね る
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写真 1 安曇野(朝ドラ・ロケ地)
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写真 2 上高地河童橋
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写真 3 白樺林
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写真 4 河童橋から徳沢へ
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写真 5 明神館
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写真 6 徳沢園
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写真 7 展示資料(ナイロンザイル事件)
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写真 8 前穂高岳遠景
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平成23年10月13日,鹿児島空港から羽田へ。新宿から特急「あずさ」で松本へ向かった。大糸線に乗り換え「穂高駅」で下車。目指すは10月1日まで朝ドラの舞台になっていた安曇野(あずみの)。12年前大学を定年退官して以来すっかり朝ドラの虜になったが,その中でもドラマ「おひさま」には,登場する略同年代の人々の戦前,戦中,戦後のそれぞれの生き様に自分自身を重ね合わせたような感覚で,つい引き付けられていたように思う。そこで今回の旅の舞台として最初に安曇野を訪ねることにした。
駅から今宵の宿「割烹旅館天満閣」へ向かうタクシーの中から常念岳や有明山(姿形が富士山に似ているところから,信濃富士の別名で呼ばれているとか)が眺められ,また道端のそば畑にはこれまで見たことのないピンク色のそばの花が咲き残っていた。いかにも信州へやってきたという実感が湧く。「おひさま」のロケ地では男女和合の道祖神や水車小屋などをみて回った(写真1)。先週の連休と翌週からの紅葉見物シーズンに挟まれたこの時期,珍しくも宿泊客はどうやら我々だけのようであった。広々とした露天風呂は見事な岩風呂の単純泉でゆったりと浸かった。夕食はこれまで見たことのない信州サーモン,鮎の塩焼きに加え,この旅館自家製の豆腐料理や山菜料理などが次々と運ばれて来た。辛口の地酒「雪渓」を味わいながらつい口も滑らかになり,“明日が私達の結婚50周年目です”と漏らしたところ,最後の料理の品として“金婚式のサービスです”と,焼きマツタケが宿の主人から届けられたのには大いに感激した。
10月14日,何時もより早い日の出に目覚めて大浴場に入った。この時期の鹿児島と違ってかなり朝の冷気を感じるが,湯上りの肌にはむしろ心地よい。盛り沢山の朝食には温泉卵や豆腐料理がたっぷり。宿の女将さんに夕べのもてなしのお礼を述べて,11時過ぎ穂高駅から再び松本へ向かった。松本電鉄の電車に乗り約30分後新島々に着き,乗り換えたバスの窓から渓流に架かる黄,赤それぞれに美しく色づきはじめた樹々を眺めている中に,1時間程で上高地バスセンターに到着。
河童橋(写真2)のほとり,五千尺旅館のレストランで注文した信州そば「岩魚そば」には,まさしく大きな岩魚が一匹どんと入れられており,驚きながらも美味しく平らげた。河童橋を渡って20分ばかり歩き,日本アルプスを世界に紹介したウェストンの「記念碑」を通り過ぎると,間もなく上高地温泉ホテルに着いた。まさに50年前今回と同じ日に新婚旅行で泊まった宿である。当時と違って立派な和洋式ホテルに建て替えられてはいたが,昔懐かしいホテルである。予約の際に一言余計なことを言った故か,到着早々支配人が梓川をバックに我々の金婚式の記念にと写真を撮り,フレームに入れて後ほど届けてくれた。夕べといい,“口は災いではなく幸いの元”となる。梓川周辺の白樺林(写真3)などゆったりと散策した後,一汗流した露天風呂からも黄葉が美しく眺められた。因みに数ある上高地の宿泊施設の中でも,温泉が楽しめるのはこのホテルと隣接する清水屋だけである。部屋の窓からは焼岳と梓川の一部も眺望できた。
10月15日,夜明け前から無情にも激しい雨風が続いていた。このままでは,当初の目的の1つに計画していた徳沢まで行くのはとても無理のようであった。ところが,10時前になって急に天気が回復しはじめた。思わず「大いなる力」を感じた。実は今回上高地を訪れた以上,敢えて徳沢行きにこだわったのは次のような理由による。
昭和30年1月,前穂高岳東壁の岩場でナイロンザイルが切断し,登攀中の若山五朗氏が墜落死した。当時ナイロンザイルはそれまでの麻ザイルに比べ軽量で強度が格段に優れているといわれていたが,すでに同様の切断事故が3件続発しており,その安全性が疑問視された。そこで若山氏の実兄である石岡繁雄氏(私事ながら私どもの娘の夫の祖父に当たる)らが,ナイロンザイルの安全性を頑なに主張する国立大学教授やメーカーを相手取り訴訟を起こした。しかし不起訴となったため,公開質問で追求したことからマスコミに取り上げられ,いわゆるナイロンザイル事件として広く知られることになった。作家井上 靖氏は昭和31年穂高に登り,この事件の話を聞き,小説「氷壁」を書くきっかけとなった。その後も石岡氏はナイロンザイルの強度を科学的に検証しつつ,長年にわたり不屈の闘争を続けた。昭和50年,ついに国が登山用ロープの認定基準判定を行うことが決まり,弟の無念を晴らしたのである。
数年前NHKでこのことを知った私は,いつか「氷壁の宿」として多くの登山家に親しまれている徳沢園(小説の中では徳沢小屋となっている)を訪れたいと念願していた。五朗氏を悼んで建てられたケルン墓参までは今の私どもの体力では到底無理だとしても,せめて石岡氏ゆかりの品々が展示してあるという徳沢園行きだけはこうして実現することになった。
10時半宿を出発,梓川周辺の黄葉を愛でながら河童橋を渡り梓川左岸を徳沢園までの6.4km,我々の足で大丈夫かなと懸念しつつも,とにかく歩き始めた(写真4)。対岸には雨上がりの明神岳の紅葉が美しく見渡されるが,雲が厚くて穂高までは眺望が利かなかった。途中,明神館前で休憩(写真5)。水分と糖分を補給し漸く13時30分徳沢園に到着 (写真6)。宿の主人夫妻に挨拶し,早速石岡氏ゆかりの展示品の数々を感慨深く見せて頂いた(写真7)。19歳という若さで無念の死を遂げた五朗氏の写真に黙祷し,この旅の1つの目的を達成したという満足感に浸りながら「氷壁の宿」を後にした。その頃,河童橋周辺までやって来た野猿たちに迎えられながら,夕暮れ迫る宿に着いたのは17時直前。すぐに温泉に浸かりさすがに疲れた足腰を癒した。それにしても「大いなる力」に後押しされたとはいえ,我ながら久々によく歩けたものである。夕食時の冷えたビールと熱燗の酒が体中の細胞に染みわたった。
10月16日,早々に朝食を済ませ,梓川を下流へ田代橋を渡ってバスセンターへ向かった。すっかり回復した天気に恵まれ,昨日は眺望できなかった穂高も見渡せた(写真8)。松本からは長野へまわり,新幹線上田駅で,しばらく小諸に滞在することになった女房を迎えにきてくれた妹に託してそのまま東京へ。信州よりもずっと夕暮れの遅い鹿児島に帰り着き,4日間の思い出深い信濃路の旅を終えた。

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