随筆・その他

リレー随筆

宇宿町からうすきタウンへ

東区・紫南支部
(うすきクリニック)       楊  宏慶

 前号のリレー随筆担当であった堂園先生から,次のリレー随筆のお話を頂いたのが,約1ヵ月前でした。何を書けばいいのかもわからず,もう明日は締め切り日!と思いながら,朝,出勤。なんと,本日は当番医でした。残務を終えて,今,やっとパソコンに向かっていますが,気がつけばあと数時間で締め切り日…。随筆とは何かもわからず,Wikipediaで調べると「体験,見聞や日ごろ思う事柄などを,筆のおもむくまま,自由な形式で書き記した文章」とありました。
 そこで,私が生まれ育った宇宿町の変貌ぶりについて筆のおもむくまま綴ってみたいと思います。

 私が小さい頃(物心ついたのは幼稚園の頃なので,40年前頃からの記憶になります)は,脇田電停とJR宇宿駅の間には大きな田んぼが広がっていました。自宅は脇田電停の近くにあり,JRの踏切の向こうには,母校である宇宿小の大きなクスノキが3本はっきりと見えたものです。田んぼは私の通学路でした。
 記憶に残っている範囲ではありますが,田んぼの半分はキャベツが栽培され,残りは稲を作っていたように思います。春にはキャベツ畑にモンシロチョウが舞っていて,網をもってよく追いかけたものでした。キャベツ畑の残りにはレンゲソウが広がり,日が暮れるまで四つ葉のクローバーも探していたと思います。
 夏になると水田にはカエルの卵が浮いていて,そのうちに無数のオタマジャクシとなり,気がつくと夜はカエルの大合唱でした。そういえば今では絶滅危惧種のタガメやゲンゴロウもよく見かけ,捕まえたものでした。他にはアメンボやアオガエルにヒキガエル,そして田んぼの横の側溝にはボウフラがいたのを覚えています。
 8月の七夕前には,竹売りのおばちゃん達が私の通学路である田んぼ沿いに陣取っていました。1ヵ月遅れの七夕では,学校にはたくさんの願いを下げた巨大な竹竿が飾られ,家庭からも思い思いに飾り付けた竹竿が通りを賑わしていました。
 秋には,稲の収穫を終えた田んぼが空き地になり,いい遊び場になりました。
 冬には田んぼにできた霜柱を見て,「半ズボンがいよいよ寒いなあ。なんで長ズボンは風邪をひいたときだけなんだろう。風邪をひかないように長ズボンを履いたらだめなんだろうか」と,ませた疑問を感じながら足早に通り過ぎたものでした。ところが,雪が降り積もると,そんなことは関係なくなり,友達と一斉に田んぼに降りて,手が赤ぎれるのも忘れて,雪合戦や雪だるま作りを必死にやりました(なぜかというと雪に限りがあったからです)。当時は今のような防水性の高い手袋や上衣はなく,自宅に帰ると石油ストーブや赤いランプのこたつのお世話になったものでした。
 そして,年末になると通学路の沿道には,お正月のしめなわや門松竹売りのおじちゃん・おばちゃんが陣取りはじめます。結構,買い物をする人が多いな,売れてるなあと思いながら,オトナの邪魔にならないよう通り過ぎたものです。当時,大晦日はなんか慌ただしくて,その一方,翌元旦には嘘のように人通りが少なくなって,「あ,新年になったんだ」と思ったのを覚えています。
 今では,その田んぼにはビルが建ち並び,遮断機すらなかったJR踏切には宇宿駅ができており,宇宿小のクスノキもかろうじて見えるくらい「街」になっています。宇宿商店街も昔のようには軒を連ねていませんが,町内会の方々が連携・協力して全国でも有数のがんばる商店街で取り上げられているようです。

 私が開業したうすきクリニックは,宇宿小の先(当時の山奥方向)の脇田川沿いにあります。
 当時,宇宿小の先には,脇田川沿いにクネクネ曲がった対面交通の道があり,ところどころ離合が大変で,デコボコのガードレールが印象にあり,家は川沿いを中心にあるだけだったと思います。現在の紫原側(上流に向かって右側)には崖があり,その麓には田んぼが広がっていたと思います。小学校のときはその斜面に自生したつわを取りに行き,崖から滑り落ち,気がつけば川もしくは田んぼの用水路に飛び込んでいたこともありました。今では,紫原までは大きな道路ができあがり新しい街,西紫原ができ,崖はなくなり,隅々まで住宅が広がっています。
 左手の山(今は大学病院がある側)には,畑が広がり,私たちは「みかん山」と呼んでいて,クワガタやカブトを探しに行きました。木を思いっきりけると,虫が落ちてきたものです。残念ながら,カブトが見つかることは稀で,ノコギリクワガタやコクワガタが「上物」で,緑色の背中のカナブンが「並」の収穫でした。このみかん山も,今ではほとんどが住宅になっていますが,鹿大病院の近くのマンションのはるか左手に野球のバックネットのような土壁があり,その周辺にかつての面影を見ることができます。実は小学校時代は,宇宿小の生徒の「基地」になっていました。その頃の桜ヶ丘にはまだ何も建物は建てられていなかったと思います。
 その頃の宇宿地区の山奥(今の広木,田上台,向陽台)に行くには,川沿いのクネクネ曲がっていた道を行くよりも,川をさかのぼる方が確実で,今の森山団地付近では,木や草が生い茂り,マムシも川の土手からちょくちょく出てきて,ちょっとしたジャングル状態(当時はアマゾンぐらいに感じていました)で進むことができなくなったものでした。その未開の川も,今では川岸から飛び込めないほど深く整備され,川幅はおどろくほど広くなっています。川沿いのクネクネした道は幅5m超の道路に変貌を遂げ,今後,国道225号線から広木農協までつながるようです。開業当時,当院は,古くからのジゴロの感覚では,宇宿地区のど真ん中にあると思っていましたが,7年も経過しますと,当院より奥が次々に開発され,桜ヶ丘と紫原の間の谷は一大住宅地となり,道路の沿線には住宅地はもちろん,様々な施設が建ち並んでおり,当院は一大住宅地の入り口にあるようにも感じております。昔は宇宿三丁目までしかなかった宇宿地区も今では九丁目まで広がっているようです。さらに,本年の新幹線の開通により,中央駅から直結する宇宿駅を中心とした宇宿地区は,脇田電停までのシャトルバスもあり,住みたい街として人気が出てきていて,出張や転勤で住まれている方も多いと聞いております。
 当院に来院される患者様で,地元で生まれ育った方は半分ぐらいなのではと思われます。地元びいきと言われても仕方ありませんが,ジゴロの方も,新たに転勤族で来られている方も,何となくあたたかい方が多いと感じています。
 この地に生まれ,この地に育ったことに感謝し,そして,地元で開業している責任や誇りを胸に,住めば元気になる街,元気に長生きできるうすきタウンとなるために,これからも地域貢献とは何かを忘れずに頑張っていきたいと思っています。


次回は,あいこう皮フ科クリニックの愛甲隆昭先生のご執筆です。(編集委員会)




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