=== 随筆・その他 ===
敗戦後の学生運動
ノンポリを交えて
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何時の間にか年をとって色々昔を考えるうちに,敗戦直後,特に東京では学生運動が非常に激しかった頃を思い出した。
戦時中,鹿児島の街も頻回の米軍の大空襲を受けて病院も基礎教室も度重なる空襲で焼け尽くされ何も無い,ただ疎開していた図書室にアンダーウッドの英文タイプが1つ残っていた。丁度私は論文の仕上げの時期に入っていた。学校には文献が何も無いので,私はその英文タイプを担いで先ず広島のABCC(原爆傷害調査委員会)に行って,そこにある最新の英文文献を自由に写させて貰った。ただ,写真撮影もコピーも禁止だったが,当時(昭和30年頃)は未だ日本人はカメラやコピー機などとても持っていない時代だった。ABCCは米国国務省の直轄施設で,当時日本中の最高権力者であったマッカーサーの威厳すら及ばない所だった。場所は鹿児島に例えると丁度城山の頂上に建設された二階建ての蒲鉾兵舎ながら全館冷暖房が整い,最新式の研究設備や文献が揃っていた。ただ,米軍人達の日本人原爆被災者に対する態度が横暴だった。彼らは広島の街に彷徨う日本人浮浪児をチューインガムで騙して数十人ずつジープで集め比治山のABCCに連れて来て,採血とか骨髄穿刺など済ますとケーキやチョコレート等を与えてそのまま広島の焼け野原に帰していたのを我々は被占領国民として苦々しく見逃すほかはなかった(鹿児島市医報 第25巻 第1号「広島ABCCの思い出」)。
また場合によっては,文献収集のために東京までも足を伸ばした。鹿児島から東京までの汽車は未だ戦前の古い型で誠に哀れなものだった。それに戦時中の米軍の機銃掃射により天井には多くの穴が開いており,窓ガラスは割れっ放しで列車がトンネルに入ると石炭の煤で頭も顔も真っ黒になるものだった。しかもその頃は自分の食べる分の現米か,または外食券(食堂で米に替えてくれる)を持って行かねば東京では親戚でさえ泊めてくれなかった。汽車の中では三国人の闇米の買出しが非常に多く,彼らの横暴は激しくて日本人を追い出して,椅子や網棚を占領し長々と寝そべるほどだった。乗客はほとんど窓から出入りしていて,列車のトイレもぎっしりと人間が詰まっており,特に女性の用便が悲惨だった。当時は日本の警察の取り締まりは無いに等しく,米軍のMP(憲兵)に頼るほかは無かった。戦時中,日本人が中国や韓国でやっていた権力のお返しを受けたようだった。このような列車で鹿児島から2泊3日かけて上京したのだ。
東京では日比谷公園内のCIE(民間情報教育局)に通ったが,そこでも最新の文献の閲覧が自由に出来た。私が医学書を探している時,隣の机では警察予備隊の若者が一生懸命,戦車とか大砲の設計図を写していた。非常に印象に残っている。
面白いのは東京の各大学は大学自身も焼けっ放し。そんな所でも文献を貸し出すことに非常に権力的で,東京の大学では医学部教授の紹介状がなければ見せてくれなかった。特に鹿児島から来たといえば,未だ全く知られていない新設校など問題にもされなくて残念な思いを何度かした。東大の受付で,本は安田講堂の地下廊下にあるというので行って見ると,山ほどの文献が地下廊下いっぱいに非常に乱雑に散らばっていて,その中から自分で探せと事務官が誠に素っ気無く横柄に言うのに腹が立った。むしろ戦勝国アメリカの方が全く自由で気楽だった。
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写真 1 血のメーデー(昭和27年5月1日)
(日本歴史シリーズ22)
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写真 2 新宿闘争(昭和27年6月25日)
(日本歴史シリーズ22)
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写真 3 東大安田講堂攻防戦(昭和44年1月18日)
(1億人の昭和史)
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若い人々はそれぞれの立場で敗戦の虚脱から這い上がろうとしていた。その頃日本全国まったく重苦しい事件に満ちていた。下山事件・三鷹事件・松戸事件(昭和24年・1949),安保条約(昭和26年・1951),日本の防衛のため警察予備隊・自衛隊と段々規模が太り始めてついに朝鮮戦争(昭和25年・1950)にまで拡大してきた。それに対して学生および労働者側は再軍備反対,安保条約改定反対の大規模なデモを繰り返していた。労働者の団体を含めて血のメーデー(写真1)もその頃である。私が通っていた日比谷公園のCIE図書館は近くには宮城前広場もあるし,マッカーサーのGHQ(連合国最高司令官総司令部)も近かったので周囲の警戒は厳しかった。デモ隊の周りを騎馬警察隊が取り囲んで,デモ隊のシュプレヒコールや怒声などで双方なかなか険悪な雰囲気だった。
そんな時代でも日比谷公園内には夜間照明のついた進駐軍専用の野球場やテニスコートがあった。当時日本国内の電気事情は最悪で,国鉄の新橋のホームから遥かに築地の聖路加病院だけが電気がつけられ特有の十字架が煌々とライトアップされていた。周囲の広い範囲,東京下町の千代田区,港区,中央区,江東区全体が焼け野原で西本願寺がポツンと立って真っ暗闇だったのだ。新橋,有楽町,田町のホームに滑り込む国鉄電車もガラガラに空いた進駐軍専用車が走る一方,日本人は鮨詰め状態の電車にギュウギュウ詰めに押し込められて誠に情けない思いだった。
何処の駅だったか忘れたが,私が駅の跨線橋(こせんきょう)を渡る時,鉄兜に覆面姿の学生集団が凄い勢いで走って来た。その後ろから血走った目の警官集団が追い掛けて来た。その上,新宿まで来た電車がドアを開けない。人を降ろすと面倒なことになると国鉄は判断したのだろう。電車から新宿西広場を見下ろすと,学生・労働者の集団が警察軍と対立し火炎瓶を投げつけていた。装甲車がその間を走り回ってスピーカーで何か怒鳴っていた。まるで戦争中の市街戦の再現だった。今の新宿を見ると非常に懐かしい(写真2)。
あの頃の学生は学生なりに勉学もしていただろうし,労働者は働きながらお互いの主張と敗戦後の日本の正当な復興を目指して真剣な勝負を続けていたのだ(写真3)。然し,時が経つにつれて安保闘争も何時の間にか尻切れトンボになり,あの頃の活動家達は何時の間にか政治家として世を牛耳っている。
あの頃私は政治には無色だったし,デモやストにも無関心,それより論文収集に夢中で,所謂ノンポリ(non-politicalの略)といわれた部類である。
今では鹿児島大学医学部も桜ヶ丘に他の大学に劣らないくらい立派に新築され,文献は読み切れぬほど手に入るし,電子機器に不自由しない,研究設備も十分だ。ありがたい世の中だ。論文も他の大学の世話にならなくても良くなった。あの頃の若者の目の輝きを思い出せば,一部の付和雷同組を除いて全体的には凄く気合が入っていた。年が移り現在の状況を見ると,今の政治家では財政問題にしても他国に遅れをとり,外交問題,領土問題にしても視点も見識も見失った政治家に牛耳られている。長閑な世の中だ。
敗戦後の思い出は多々あるが,あの頃はそれぞれ真剣に生きて来たなと思う。敗戦直後に貧しい中から一途に文献を求めるために走り回った頃を懐かしく思い出す。

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