=== 随筆・その他 ===
池 の 鯉 に ま つ わ る 話
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私が若い時,脇田に住んでいた頃があった。まだ大学病院の周辺地域が造成されていない頃で,周りは未来の大学病院への取り付け道路が出来るという話のある田園地帯だった。近くの楠の洞には梟が啼き,蛍やトンボが飛び交い,田んぼは海辺が近いので蟹やフナムシが這い回っていた。その頃私の家は田んぼの中のちょっとした一家屋だった。
本宅の脇には老夫婦の隠居もあり,築山を巡らせた庭には約7坪ぐらいの池があった。凹凸を工夫した岩組みの設えで,鯉に恋する感覚で愛情込めて手入れを楽しみにしていた。私の伯父に十和田湖の水産試験場長を務めた淡水魚の専門家がおり,私も小さい頃から「金魚の伯父ちゃん」といって親しくしていて,大分指導してもらった。
私が病院から帰って着物に着替えて縁側に立つと大勢の鯉たちがずらりと並んで静々と近づいて来る。如何にも「お帰りなさい」といわんばかりの可愛いさで,水面のゆらゆらも心の和む一時期だった(写真1,2)。
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| 写真 1 池の鯉たち(池の左側) |
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写真 2 池の鯉たち(池の右側) |
誠に面白いことに鯉の群れの中には大抵いたずら坊主がいて,綺麗に並んで近づいて整然とした行列をわざと取り乱して逆行するやつもいた。それはそれで可愛いものだった。
この鯉たちも然るべき時期が来れば何時の間にかそれぞれカップルを作り,それぞれの入り江に篭るのだった。それを「鯉が恋する季節」と呼んでいた。カップルでない連中が,素知らぬ顔でその周りを過ぎて行くのは人の仕草にそっくりだ。こうして何時の間にか鯉たちも大人になってゆくのだ。
その時期が過ぎて入り江に柴の小枝を沈めて置くと,何時の間にか小さな卵を産み付ける。孵化すると稚魚はまるでメダカの子供みたいに泳ぎ回っていた。然し何時の間にか子供たちは消えてしまうものだった。共食いするのだろうか。
これだけ気分を鎮めて潤いを与えてくれる鯉たちの世話もそれなりの苦労があった。夜中にバシャリ,バシャリと鯉たちが池を跳ねる音がした。水温が上がって来たのか,酸素が足りないのか,または水が少ないのかと考えていると,どうやらイカリ虫,ウオジラミがついたらしい。鱗を岸の岩肌に擦り付けて虫を落とそうとしていた。あまり放っておくと鱗を傷つけてしまい,他の難病,奇病のもとになる。早速池の掃除,消毒をせねばならなかった。土曜日,日曜日は大抵虫の駆除に潰された。池を浚えて鯉の鱗を塩で拭くとダニが落ち,鯉たちが“ああよかった”と喜んでいるようだった。時にはマラカイトグリーン,メチレンブルー,マーキュロクロームとかフルマリンなどを撒いたり,またはエアーレーションをセットすることもあった。鯉をいじめるのはダニだけではない。海や川が近かったのでよく鵜や鷺などの水鳥が鯉を狙って来た。網を掛けたりすることもあった。
秋が来て台風が過ぎたりすると,翌朝は水道水がカルキで濁るものだった。初めこの知識が無かったために多くの鯉を死なせた苦い経験がある。だから池に水を入れるのは地下水を原則とした。湾曲を付けた貯水池を設けて,保温や親水に努めてから池に落としていた。循環ポンプを設備した。深さがまるでプールのように深い飼育型もあるが,私の池は浅い観賞用で水深が窪みを入れて1m前後だった。池が深いと鯉は大きく育つが池の管理が大変だ。鯉の管理は水の管理だとつくづく思った。
池には水草や苔が生えるように注意もした。江戸菖蒲,肥後菖蒲,伊勢菖蒲などわざわざ原種の株根をわけて貰って鉢植えをして池に植え込んだものだ。花の季節は特に綺麗だった。
私は鯉の他に柴犬の中型犬を飼っていた。凄く優秀な犬でこれが人間だったら,
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写真 3 アニーとローリー
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さぞかし英才賢母型だったと思っている。それがとても可愛いい子犬を2匹産んだ。よちよち歩きの頃はおっかな吃驚で池を周りながら池の鯉を不思議そうに覗き込んでいた。池をひと周り出来たときの達成感は如何にも嬉しそうだった。2匹の犬に“アニー”,“ローリー”というスコットランド民謡の名をつけていた。その頃,この曲は列車の車内放送や学校の終礼合図によく使われて私も好きな曲だった。彼らは親子共々立派に育って池の風物詩として育っていた(写真3)。
池も年月が経って築山の木々の茂みも風格が備わり,池も馴染んで来た頃,私達は屋敷を引き払って加治屋町に移ることとなった。まず池の鯉を始末せねばならなかった。一番念の入った奴ほど生命力が弱く,一番いたずらっ子のドイツ鯉が何時までも残っていたのは不思議だった。鯉の始末をして小犬たちも良い縁に貰われて懐かしいアニーローリーのメロディーに別れを告げ,全体の始末が付いた頃,4〜5年してやっと皆との別れが出来たのだった。
宇宿の生活が何年だったろうか,14〜15年ながら私の一生の内で誠に充実した生活だった。今頃市内に300坪の敷地で池があって,住宅と隠居の二棟を備えた土地が手に入るだろうか。運が良かったとしかいえない,有り難い時代だった。現在,周辺は住宅化していて面影を偲ぶことが出来ない。あの頃の鯉たちと子犬たちを懐かしく思い出す。

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