=== 随筆・その他 ===

青 葉 の 笛


中央区・中央支部
(鮫島病院)       鮫島  潤
 私は小さい頃は非常に体が弱かった。小学校ではテストの時だけ学校に行っていた。一中受験の時も人力車で行って別室で一人の受験だった。だから合格した時の喜びはひとしおだったことを覚えている。現在みたいに元気になったのは中学校卒業後である。
 小学校の頃,肺浸潤・肺門リンパ腺炎との診断で今の市立病院の場所にあった日本赤十字病院に通って丸い大きな円筒に入り,太陽灯といった紫外線照射を受けていた。それに肝油を飲まされるのが厭だった。結核に対する化学療法など全く考えられない頃だったため,治療法はせいぜい安静・栄養・新鮮な空気・転地療法しかなくて,鴨池に海浜病院という大きな結核専門病院があるぐらいだった。その頃,結核は国民病といわれていて,例えば石川啄木,正岡子規,尾崎紅葉など多くの文人が犠牲になっていた。徴兵検査で兵隊を集めても,結核で除隊させざるを得ないので,国土防衛上結核対策に必死になっていた時代である。夢みたいな頃だ。
 私はとうとう転地療養のため,敷根の小学校に転校した(鹿児島市医報 第49巻 第2号「山村留学の記」)。続けて指宿の海岸に転地した。指宿では東方がまだ広い沼地だったので,フナや鯉を釣ったり雲雀を追ったり,静かで自然豊かな生活を送った。あそこの広い沼地は後に海軍航空隊基地になった。お世話になっていた家の主人は,当時外国航路の船長をしていたというお年寄りで,まだ子供だった私に対して「あなた方は将来自由に外国に行くべき人たちだから」とよく外国の話を聞かせてくれた。その頃ではかなり考えの進んだ方だった。そこに母が時々様子を見に来てくれたが,その時炬燵を囲みながら平家物語の源平合戦「青葉の笛」を教えてくれたのが今でも忘れられない。平 敦盛の須磨における悲劇を詩にしたもので,老健施設でよく歌われるそうだ。
 @一の谷の 戦敗れ
  討たれし平家の 公達哀れ
  暁寒き 須磨の嵐に
  聞こえしはこれか 青葉の笛
 詩の経緯も歌唱も意外にはっきり覚えている。
 A更くる夜半に 門を叩き
  我が師に託せし 言の葉哀れ
  今わの際に 持ちし箙(えびら)に
  残れるは 「花や今宵」の歌
 Aは平 忠度(薩摩守忠度)(清盛の弟)のことを歌った詩で青葉の笛と内容が異なるのでここでは省く。
 この語は平家物語・吾妻鏡に記載されているし,歌舞伎でも「一谷嫩(ふたば)軍記,熊谷陣屋の場」として重要演目になり,義経の一谷の逆落としで平家は大敗北し武将達は船を目掛けて逃げていた。平 敦盛は「青葉の笛」を取りに一旦引き返したため,船に乗り遅れたところを百戦練磨の熊谷次郎直実に難なく組み伏せられた。直実は首を取ろうとしたが,余りに若く美少年である敦盛を我が子直家の年齢(16歳)と同じだと思い,親の心を察して逃がそうとするが敦盛が聞かないのでついに首を刎ねた。その時,懐から落ちて出た笛が「青葉の笛」である。敦盛は笛の名手であった(写真)。
写真 平 敦盛
この辺りを歌舞伎では複雑な義理と人情を絡ませて興味深く演じている。後に直実は一の谷の合戦にて我が子と同じ歳の子供を同時に失ったことに無常を感じて出家し法然上人の下で親鸞と兄弟弟子になったという。母はこの物語を良く聴かせてくれた。この青葉の笛(小枝の笛)は鳥羽上皇より賜った由緒あるもので,現在も神戸の須磨寺にあるという。また笛は鹿児島の国分市敷根台明寺の竹で作られたものと聞いた記憶がある。
 敷根,指宿での生活は自然を楽しむ心情を育ててくれた。お陰で体は非常に丈夫になり中学生活は皆勤賞で,何時の間にか米寿を迎える歳となった。私はあの数年間の生活に感謝している。今考えると随分多くの人に世話になったものだ。だからこそ今の自分があるのだ。「青葉の笛」の物語から幼かった頃を思い出した。




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