緑陰随筆特集
140キロを走りながら『津波てんでんこ』を想う |
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西区・武岡支部
(もりやま耳鼻咽喉科) 森山 一郎 |
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遠からず君は何者でもなくなり,いずこにもいなくなることを考えよ。また,君の現在見る人びとも,現在生きている人びとも同様である。すべては生来変化し,変形し,消滅すべくできている。それは他のものがつぎつぎに生まれ来るためである。
【自省録(マルクス・アウレーリウス著/神谷美恵子訳)】
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美しい香山公園瑠璃光寺を背景に140キロを20時間33分55秒,40位でゴール。
参加420人中制限時間内完踏209人。完踏率49.8%。平成23年5月4日撮影。 |
「プウウ,ハハハ,フフフ,ハフハ,アハ,プウアハ」なんとも腹に響く地鳴りのような笑い声である。演じたのは二代目尾上松緑か初代松本白鸚だったか今では定かではないが,約35年前に観た歌舞伎『時平の七笑』の最後の場面で,菅原道真を謀略により大宰府へ追い落としたあとの,時平の笑い声である。左遷前は,時平と道真は仲良く正式な国史『日本三代実録』の編纂に携わっていた。その『日本三代実録』の巻の第二からが清和天皇の貞観という時代である。因みに巻の第一の清和天皇即位前紀では,文徳天皇の第4子があえて慣例を破り,兄3人を飛び越えて,天皇(清和)に即位したという意味のわらべ歌を紹介している。国史の第一巻の最初から藤原良房の孫の即位を童謡で揶揄っているのである。翌年から始まる貞観という時代のなんと不吉なことよ。そして,あの時に聴いた時平の腹黒い笑い声が,縦に揺れ横に揺れる不吉な共鳴振動となり,不快な動揺感が今まさに小生にあの地震を想起させることになった。
今年もやってきた。平成23年5月3日午後6時,エイエイオーという掛け声とともに意気揚々(?)と山口萩往還140キロコースをスタートした。ただ,今年は少し不安がある。昨年250キロの部にエントリーして,足の故障にてやむなく180キロ地点でリタイアしたこと。本大会の4日前に頴娃(えい)新茶大野岳登山レースで18キロを走ったばかりだったことなどが,足にどう影響するか未知数だったからだ。そんな状態でスタートしたためか,案の定,走り始めて直ぐに足の張りと体の重みを感じ,思うように前に進まなくなった。次の休憩地点でリタイアかな。翌午前0時半,不安を抱えながらも何とか49キロ地点の山口福祉センターの休憩所にたどり着いた。そこで,おにぎりをほおばり味噌汁をいただきながら,足のストレッチとマッサージを念入りにやる。少しずつ老廃物が浄化されていくようで,何とか再出立できそうだった。さぁ,あと101キロ,これから佳境の萩往還の山道に入る。萩往還の急峻でデコボコの石段と砂利の登り道は自重し走らず早足で歩く。徐々にではあるが,足の張りが無くなり,重かった体も軽くなっていく。いつしか思考にも余裕がでてきた。いつものように地面が小生に語りかけ,我が身と我が心を癒してくれる。
スタートして60キロ地点の真っ暗やみの山の中。いつの間にか足の張りや疲れがなくなっている。日々のトレーニングの成果か,萩往還の森林浴の恩恵か。星を感じるものは詩人であり歌人である,地を感じるものは哲学者であり禅僧であると思う。走りながら地面がいつも与えてくれるもの,それは勇気であり生きる悦びである。萩の悪路が小生をして『津波てんでんこ』について考えさせようとして来た。
平安時代の清和天皇貞観期は不吉な時代であった。貞観という元号でまず思い出すのは,貞観格式であろう。大宝律令が施行されてから150年余りが過ぎ,かなりの部分が時代にそぐわなくなり細部を補佐する必要が生じて格と式が発令されたのだ。そして摂関専横へと向かう時代である。藤岡作太郎氏は著書『国文学全史平安朝篇』のなかで,「仁明天皇の朝,嵯峨上皇崩御あり。空海等も相続いて逝き,文徳天皇即位のはじめ,貞主,篁また歿して,一時秋葉の凋落せるが如し。時運もここに一変して,天皇親政の時代は転じて,摂関専権の時代となりぬ。」とこの時期の不穏な社会情勢を文学者らしく格調高く言い表している。余談だが,このあたりの藤原一族の権力闘争に関しては歴史小説の『山河寂寥』(杉本苑子著)が面白い。『日本三代実録』によれば貞観元年は,西京火災,日食,霖雨大水,雷雨大風,頻回なる地震,大雪など天変地異で始まる。貞観6年には富士山の大爆発が報じられている。駿河国の報告では,「大山に火あり。十餘日(とをかのあまり)を歴(ふ)れども火猶滅(ひなおき)えず。焼けし巌石(がんせき),流れて海の中に埋もれ,…火焔(ほのほ)遂に甲斐國の境に属(つ)く」。また,甲斐国の報告には,「富士大山に忽ち暴火あり。水熱くして湯の如く,魚鼈(ぎょべつ)皆死に,百姓(ひゃくせい)の居宅(いへ),海と共に埋(うづも)れ,或は宅(いえ)有て人無きもの,其の數(かず)記しるし難し」【日本三代実録巻8,9】とある。そして,貞観期の最も重大な事件が貞観8年に起こった『応天門の変』である。これは,子供のけんかに親が口出しして親同士の口論となり,それがきっかけとなり真犯人が見つかったという奇妙な事件であった。『日本三代実録』の冒頭のわらべ歌といい,この事件の子供喧嘩といい,無邪気な子供にかこつけて着々と権力を掌握する藤原良房のほくそ笑む姿が目に浮かぶようである。さていよいよ問題の貞観地震である。
「貞觀(ぢやうぐわん)11年5月26日(西暦869年7月13日)癸未(きび),陸奥國(みちのくのくに),地大(ちおほい)に振動(ふ)りて,流光晝(ひる)の如く隠映す。頃之人民叫呼(しばらくのあいだたみさけ)び,伏して起(た)つ能(あた)はず,或は屋仆(いへたふ)れて壓(お)され死に,或は地裂けて埋(うづも)れ殪(し)にき。馬牛は駭(おどろ)き奔(はし)りて或は相昇(あひのぼ)り踏む。城郭倉庫,門櫓牆壁(もんろしょうへき)の頽落(くづ)れくつ覆(がへ)るものは其の數(かず)を知らず。海口(みなと)は哮吼(ほ)えて,聲雷霆(こゑいかづち)に似,驚濤涌潮(なみわきあが)り,泝(くるめ)き漲長(みなぎり)りて忽(たちま)ちに城下に至り,海を去ること數(すう)十百里,浩々としてその涯(は)てをわきまへず,原野(はら)も道路(みち)も惣(すべ)て滄溟(うみ)と為(な)り,船に乗るに遑(いとま)あらず,山に登るも及び難くして,溺れ死ぬ者千許(せんばかり),資産(たから)も苗稼(なへ)も殆(ほとほ)と孑遺(のこるもの)無かりき」【日本三代実録巻16】。いろいろ新聞などで報道されているが,これが貞観地震の(読み下してあるが)原文である。平成23年3月11日の東日本大震災と全く同じ内容の記述ではないか。
東北地方には『津波てんでんこ』という悲しい教えが伝わっている。『津波てんでんこ』とは,凄まじいスピードと破壊力の塊である津波から逃れて助かるためには,薄情なようではあっても,親でも子でも兄弟でも,人のことなどはかまわずに,てんでばらばらに,分,秒を争うように素早く,しかも急いで速く逃げなさい,これが一人でも多くの人が津波から身を守り,犠牲者を少なくする方法です,という悲しい教えなのである。明治三陸津波の重要な教訓である【津波てんでんこ(山下文雄著/新日本出版社)】。でも,その場になって実際に幼児やお年寄り,そして体の不自由な人々をそのままにして果たして自分だけ逃げられるだろうか。現在では津波警報がいち早く報道され,いくらかの時間的余裕があり,弱者をも連れて逃げられる可能性がある。そこで大切なことは住民全員が高台へすみやかに避難できる体制づくりである。収容施設は標高50メートル以上の高台に設置し,車,自転車,人などバラバラに走って逃げても,何ら混雑や渋滞することなく,いつも整備されている道路(幅100メートルぐらいが適当か)を数本確保する。そんな理想的な都市再生の未来像を抱くのは幻想だろうか。走りながら復興に向けいろいろなインフラのアイデアが浮かんでくる。
人固有一死(人固(もと)より一死あり)
或重於太山(或は太山より重く)
或軽於鴻毛(或は鴻毛より軽し)
【文選(司馬 遷/報任少卿書)】
萩往還の悪路は,今度は人の命の重さのことを小生に想起させる。果たして山より重いのか羽毛より軽いのか。立派に死ぬというが,これは自ら命を絶つときにいうことではないかと思う。お国のために特攻死するとか,主君のために腹を切るとか,衆人を救うために即身成仏というのは確かに立派な死に方である。でも俗な我々にはそのようにして立派に死ぬことは出来ない。特に小生にいたっては陋巷(ろうこう)で窮死するのが関の山であろう。凡人が立派に死ぬということは,どのようなことなのだろうか。一瞬にして津波に命を奪われた人々は決して本人の望むような立派な死ではなかったであろう。でも,皆きっと立派に生きた人々だったと思う。それぞれの生業をそれぞれ全力で生きた人たちだ。死に様はすなわち生き様であリ,如何に死ぬかは如何に生きるかである。この度亡くなった多数の方々は,我々の今後の生き方を試されているのだ。我々はこの惨事を決して忘れてはいけない。そして,我々に課せられた義務は二つ。先にも述べたインフラの整備と後に触れるであろう美しい日本の保持だ。
没我然と一人萩往還の闇夜を走っていて,ふと寂寥感が襲ってくることがある。いま自分はどこにいるのだろう。目を見張れども光一つない。耳を澄ませども足音一つ聞こえてこない。我に返り競技者を探す。暫く動かずに佇み後続を待つとサクサクと足音が近づいてくる。『空谷(くうこく)の跫音(きょうおん)』とはまさにこのことで,寂しい萩往還の中にあって自分以外のランナーの足音を聞くと本当にホッと一安心する。そろそろ夜も明けて萩城址に近づいてきた。もう道も迷うまい。足も快調だ。最後のチェックポイントである東光寺でスタンプをもらい,隣接する松蔭神社を通り過ぎた。吉田松蔭も草葉の陰から平成の志士たちを見守ってくれているようで,ここまで来れば残り35キロ,何とかなりそうだ。不吉な貞観の時代もそろそろ終わりだ。『日本三代実録』の終わり近くはなんと鹿児島の開聞岳の大噴火の記録だ。貞観16年7月「開聞神(ひらききのかみ)の山頂に火有りて自ら焼け,煙燻(けむりけぶ)りて天に満ち,灰沙(くわいさ)雨の如く,震動の聲百餘里(こえひゃくより)に聞こえ,社(やしろ)に近き百姓震恐(ひゃくせいしんきょう)して精を失ふ」【日本三代実録巻26】。平成時代の鹿児島も安穏としていられない。
ここ幽州台には古人もいない,ましてや未来人もいない。天地の悠々たるを念(おも)い独り愴然(そうぜん)として涕下(なんだくだ)ると,『幽州台に登る歌』で歌った陳子昴(ちんすごう)と小生の寂寞感とは大いなる逕庭(けいてい)があり比すべきにもあらずだが,やはり不言不語(いわずかたらず)の悠々たる大地と長時間戯れると,あらためていつまでも美しい日本であって欲しいと思う。日本には「核兵器をもたず,つくらず,もちこませず」という『非核三原則』がある。原発は今や,世界最大の凶器と化している。平和利用もあったものではない。非核は核兵器に限らず原発にも当てはめられないか。悲惨な戦争で核の犠牲になった我々日本人に託された至宝の原則である。前述したように,地震に耐え津波からいち早く逃避できるインフラの整備に加え,震災後の我々に課せられたもう一つの義務は,原発の全面廃止を以って(この難題を将来にわたり考え続けることこそが,東日本大震災を風化させないことでもあるのだが),美しい日本を守ることである。これ以上,漏れ出た放射能で汚染され続けるのは真っ平ごめんだし,他の国にも申し訳ない。電力の供給が減って,少しばかり経済が停滞して貧乏国になったってよいじゃないか。こころの幸福度が世界一であればよい。あのブータンを抜いて。
《あとがき》
『日本三代実録』に関しては,「読み下し日本三代実録」(武田祐吉・佐藤謙三訳/戎光祥出版)を参照したが,苦労して読んだにもかかわらず,インターネットという便利なもので検索すると,小生の引用したものはほとんど簡単に手に入ることがわかった。しかしながら歴史の息づかいや繊細な描写のイメージは,原資料の丁寧な了読により初めて知りうるものである。一見くだらない長々とした除目の項でも,小生の知る歴史上の人物が登場するとその発見に浮き浮きする。インターネットでの簡便な検索と,コツコツと原資料をあたるのに費やす時間の差は歴然であるが,あえて苦労する(走ることもそうだが),これもまた小生の生き様である。

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