緑陰随筆特集

世界遺産めぐり・沖縄を訪ねて

中央区・城山支部
(高見馬場リハビリテーション病院) 林  敏雄
写真 1 首里城の正殿

写真 2 斎場御獄

写真 3 高台に聳える琉球大医学部

写真 4 琉球舞踊

写真 5 踊り子と記念撮影

写真 6 牧志公設市場にて

 平成23年4月のゴールデンウィークの前に沖縄を訪ねた。まだ小学生だった長男を連れて,沖縄,石垣,西表に昆虫採集に行って以来だから30年振りになる。国立病院を定年退職後は,仕事の合間を見つけては国内外の世界遺産めぐりをして回ったが,平成12年12月に認定された那覇の首里城はまだ見ていなかったので2泊3日の予定で出掛けることにした。
 長いことご無沙汰していた間に那覇の街はすっかり大都会へと変貌していた。空港は大型化して立派になり,首里までモノレールが走っていた。沖縄の世界遺産は「琉球王国のグスク及び関連遺産群」と称して全部で9カ所ある。メインはやはり「首里城跡」でホテルで旅装を解いてから早速,タクシーで向かった。
 以前訪ねた時は守礼門と城壁と水を湛えた濠だけしかなかったが,現在は大きな素晴らしい公園となっており,駐車場で車を降りて歩き始めると1日では回り切らない感じであった。守礼門から坂を登って石造りの歓会門から城内に入り,更に三つの門を通って下之御庭(しちゃぬうなー)に出た。ここには首里森御嶽(すいむいうたき)の遥拝場があり,立派な朱塗りの楼閣の奉神門を潜ると左右に北殿と南殿を控え,正面に豪華絢爛な正殿がある広い御庭に出た(写真 1)。
 先ず南殿の書院・鎖之間(さすのま)に行き,休憩用の和室で庭のソテツを眺めながら琉球菓子とお茶を頂いてから正殿に向かった。正殿の御差床(うさすか)には等身大の黄金の龍を左右に従えた玉座があり,柱や壁は朱塗りに黄金を鏤めて素晴らしかったが,写真撮影が禁止なのは残念だった。平日なのに観光客は多く,高台なので市内の展望も素晴らしかった。歴史的には1429年尚巴志(しょうはし)によって琉球王国が樹立され,首里城を中心に明治になるまで王朝文化の花を開かせた。首里城は沖縄戦で焼失したが,平成4年,47年振りに蘇った。
 那覇の東の知念半島に斎場御嶽(せーふぁうたき)という世界遺産がある(写真 2)。森の中の小道を少し登ると丁度三角形に開いた岩山の隙間に出た。中に入って左を見ると木の葉の間から海が臨め,沖合いに平坦な久高島(くたかじま)が霞んで見えた。この島は琉球の創世神アマミキヨが天から降りて国づくりをはじめた所で,ニライカナイ(理想郷)から五穀が流れ着いたという信仰があり,何か厳かで神秘的な雰囲気のある聖地であった。他に世界遺産として今帰仁城(なきじんじょう)などがあるが,以前行ったので今回は割愛した。世界遺産ではないが戦跡も回った。嘉数(かかず)高台公園の場所は日米最初の激戦地で,直ぐ北には問題の普天間基地が良く見えたし,目を東に転じると,高台の上に琉球大医学部の立派な建物が聳えていた(写真 3)。その他南部の「ひめゆりの塔」,「平和の礎(いしじ)」にもお参りした。
 鹿児島に帰る前の晩,料亭「四つ竹」久米店で琉球舞踏を見ることにした。4部屋ある畳敷きの個室から琉球料理を頂きながら踊りを鑑賞出来て楽しかった。寿の舞に始まり,谷茶前(たんちゃめー),空手舞踏などと続き,最後の花笠踊りのあとで記念写真を撮ってくれた(写真 4・5)。「ミミガーの和え物」はコリコリした豚の耳の千切りで食べられたが,豚足の「テビチの煮物」は一口だけ賞味?した。帰鹿当日,午後のANA出発便まで国際通りの三越に寄ったり,有名な牧志の公設市場をブラブラした。大きなシャコガイやヤシガニが並び,ブタの顔が飾ってあるのに度肝を抜かれた(写真 6)。
 沖縄を初めて訪問したのは1971(昭和46)年7月のことだから,丁度40年前のことになる。当時,母校の鹿児島大第二内科で,沖縄・奄美に自生するソテツの毒の発がん性の論文で学位を頂き,まだアメリカ占領下だった那覇市の琉生病院の診療援助で,2カ月間の出張を命じられた。外国扱いだったので簡単なパスポートが必要だったが,出発に際し,主任教授の佐藤八郎先生から琉生病院の院長宛に黒薩摩で有名な龍門司焼きの花瓶を持って行くように言付かった。その花瓶は学位を頂く時に教授からお祝いに頂くのと同じもので,一抱えもある大きさで重いが,割れ物なので手で持っていかざるを得なかった。那覇空港に着くと税関で,この花瓶は高価なもののようだから持ち込みは出来ないという。予想外の対応に驚き,色々説明したが埒が明かなかった。結局,鹿大の医学部長をしている偉い先生から琉生病院の大宜見(おおぎみ)院長へのお土産だ,と少々言葉を荒げていうと直ぐOKが出た。大宜見先生は琉球政府の厚生部長(厚生大臣)をなさった有名人だったからのようだった。
 琉生病院は60床の内科の病院で,午前の外来と,午後の入院患者の回診を毎日一人でしなければならないので,結構忙しかった。しかし当直は現地の先生がしてくれたので助かった。給料はドルで頂いたので最初は妙な気分だった。朝,医師住宅まで車が迎えに来てくれたが,帰りは美栄橋(みえばし)の病院から国際通りのお気に入りのレストランで夕食を摂った。熱帯魚の水槽の前に陣取り,体長10p位,体は淡黄色で唇?が真っ黒のヨゴレフグが,おどけた踊りするのを眺めながらオリオンビールを飲み,ほろ酔い気分で安里(あさと)の宿舎までブラブラ歩いて帰るのが日課であった。若いドライバーとは直ぐ仲良しになって,休みの日にはあちこち連れていってくれたので楽しかった。海に潜って熱帯魚を見るのが趣味のようで,私も見たいといったら景勝で有名な万座毛の海岸に連れて行ってくれた。ここは浅瀬でないので遊泳禁止なのだが,数人の男性に混じって海に入り中を覗くと,カラフルな熱帯魚が泳ぎ回っていて竜宮城のようだった。
 また南部の戦跡「ひめゆりの塔」に連れて行って貰った時,空から一枚の白いノート大の紙がふわふわと落ちてきた。良く見ると紙ではなくオオゴマダラという大型の蝶で,反射的に帽子の一振りで捕まえていた。東京にいた小学生の頃,夏休みは八王子市より更に西の裏高尾(うらたかお)周辺で昆虫採集に夢中で,宿題は標本箱2〜3個出すのが恒例になっていた。将来,沖縄や台湾(当時は日本領)に行くことがあったら,絶対に捕まえてやると思っていた蝶の一つがオオゴマダラだった。沖縄でのハプニングで昆虫少年に戻ってしまい,県内の栗野岳,指宿の魚見岳,佐多岬から奄美,沖縄,石垣,西表と領域が拡大していった。長女や長男を連れて行った時は,標本が夏休みの自由作品となった。子供達が大きくなった後は中断していたが,4年生の孫娘と沖永良部にいったのが最後となった(本誌平成16年第43巻第9号所載)。
 沖縄の夏は当然暑く,8月半ばに琉生病院全職員の納涼大会があった。大きな催しの時はヤギをつぶして食べるのが習慣らしく,皆さんが美味しいよと勧めてくれたが臭いがきつくて食べられなかった。まだ1年後の本土復帰が決っていない時で,職員に聞くと本土復帰を望む声が多かったが,アメリカと合併した方がよいとか,琉球独立をいう人もいたので驚いた。沖縄は唯一の地上戦で酷い目にあったし,戦後は占領状態が続いているのに本土の同情が殆どないので,ヤマトンチュ(本土の人)をよくいわないようだった。しかも島津に虐められた歴史があるので,鹿児島人は歓迎されないのです,と笑って教えてくれる職員もいた。しかし本土復帰後,沖縄は自然が美しいし,人柄は純朴なので,訪れた人の中には「沖縄病」に罹って沖縄に住み着いてしまう人も結構いるらしい。私が気に入った場所三つを挙げろと言われたら,自分が生まれ育った昔の東京,桜島を毎日仰ぎ見れる鹿児島,それに沖縄を加えたい。仕事をしなくなったら,寒い冬はウィークリーマンションでも借りて沖縄に住みたい位だ。
 沖縄の方言は「お」は「う」に,「え」が「い」に変わったり独特で,今回の紀行文には固有名詞にはルビを付けておいた。



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