緑陰随筆特集

名山堀の思い出

中央区・中央支部
(鮫島病院)   鮫島  潤
写真 1 黎明館の堀の西端(排水溝)

図 1 1924年(大正13年)頃の名山堀周辺

写真 2 みなと大通り公園と鹿児島市役所本館(奥)

写真 3 名山町商店街

 昭和の初め,今の鹿児島市役所本館の前(みなと大通り公園)のあたりは入り江になっていた。江戸末期の頃は誠に綺麗海辺で,ここに桜島の影を映していると言って「名山堀」と名づけられたそうだが,昭和の初め,私が子供の頃はそんなに綺麗ではなかった。沿岸に沿って石造りの倉庫群が並んで多くの貨物荷揚げ,荷ろしの伝馬船(団平船)や帆掛け舟が停泊していた。
 その頃は七高の堀は城山の湧き水量が非常に豊富で綺麗なものだった。私は昔の七高(現在の黎明館)の堀の角から(写 1),旧二高女(現名山小)と旧県警本部の間を通って市役所別館の脇から電車通りを暗渠でくぐってさらさらと名山堀に注いでいたのを記憶している。
 古地図によれば名山堀は不断光院前からウイリスの赤倉病院のあった滑川まで掘割で通じていたという(図 1)。市役所前の電車道の開通工事の為,次第に周囲を埋め立て,とうとう全面的に埋め立てられて現在のみなと大通り公園が出来たのだった。優美な姿の市役所本館,この建物は昭和の初め建設された時,設計建設上優秀な建築だとして登録有形文化財として指定されている。本館前に広がる,あの広々とした緑の芝生,その両脇に並ぶ欅の並木に囲まれた静かな雰囲気,確かに市民の憩いの広場となっている(写真 2)。みなと大通り公園の海岸通りには昔,鉄道線路が鹿児島駅から中央市場まで通じていた。その公園のベンチに腰掛けると懐かしい昔を思い出す。
 昭和の初め,此処の堀に数隻の牡蠣舟が横付けされていた。提灯で飾られて夜の波にゆらゆらする灯りは非常に詩情を誘っていた。時々,牡蠣鍋の会食に来たものだ。医師会支部の皆さんと家族同士で遊びに来たこともあった。昼間見ると周りの帆掛け舟とか団平船とか,よどんだ海の匂いが気になっただろうけど,夜はゆらゆらと動く提灯の明かりでその様なことは気にならなかった。広島の牡蠣だったというが,今みたいな環境食品衛生などサルモネラとか病原性大腸菌など考えもしない時代だった。美味しく食べて楽しく談笑した昔の思い出に耽っていた時に,ふと同じ場所の直ぐ隣に展開されていた闇市のことを思い出した。
 第二次大戦が考えられもしなかった敗戦の日を迎えた。その直後から名山町に一区画約千坪の広さに異常なほどの民衆が集まった。焼け出された鹿児島市民は勿論,米軍により日本本土と分離させられた大島,沖縄方面の復員兵士のそれぞれの帰島までの船待ちの人が多かった。長年の空襲,焼夷弾攻撃,衣服,食糧不足で疲れ切った人々の格好は今考えると悲惨そのものだった。所謂闇米,とか手製の石鹸,戦時中の鉄兜を改造して鍋とか羽釜を作ったり,敵の落とした焼夷弾の残骸を叩き伸ばしたスコップ,鍬,そのほか誠に種々雑多の日用品を持ち寄って地上に並べて販売していたのである。黒砂糖など米との物々交換もあった。その混雑は大変なものだった。非公認ながら暫くの間,鹿児島市民の台所を潤していたものだ。このことは66年経った今でも非常に印象に残っている。
 先日,全く久し振りに名山町の周りを散策した。あの千坪ぐらいの広さの昔闇市だった敷地に店舗付き2階建て住宅がぎっしり立ち並び,100世帯ぐらいが寄り添って生活している。それが年月を経て全く古びてしまってシャッターが閉まり,店も所々に開かれているのみだ(写真 3)。以前は西千石町の厚生市場もこんなにごたごたしていたなぁと感慨無量で眺めた(しかし厚生市場は最近耐震耐火の立派なマンションに建て替えられている)。昔の名山堀の周りの倉庫群もすっかり近代的な西日本新聞社,県地域振興ビル等に変わっている。向かい側にあった新聞社ビルは昔の古いビルだったが,よくもあんな小さな所で印刷までやれたものだと感服した。以前の古い新聞社屋は最期にビル火災の実験として実際に火をつけて演習があったのを覚えている。平成13年(与次郎移転)以後は,市役所のみなと大通り別館に完全に建て替えられている。変われば変わるものだ。
 名山堀を散歩して子供時代のこと,戦後の混乱期のこと,鹿児島市の発展のことを思い出すことだった。



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