=== 話題と論説 ===
東日本大震災における救援活動報告
−北茨城市立総合病院の支援報告−
|
|
|
今回の東日本大震災に対し鹿児島市医師会病院JMAT(日本医師会災害医療チーム)は北茨城市立総合病院の支援活動を行ったので報告する。
3月15日
日本医師会災害対策本部会議で被災地支援のためJMATの派遣を決定。DMAT(災害派遣医療チーム)活動後に現地の状況に合わせて救護所,避難所における医療等を受け持つとした。九州ブロックの支援先は茨城県と決定。被災地の情報不足,食糧不足,水不足,派遣医師への十分な食料や宿泊は確保されていない上での活動となった。
3月17日
鹿児島県医師会JMAT第1班が現地に入り,北茨城市役所の救護所及び北茨城市立総合病院で診療支援を開始。
(3月17日)鹿児島市医師会病院でのJMAT結成
鹿児島県医師会の要請により第1班(3/17〜20)に続き,鹿児島市医師会病院が第2班(3/20〜23),鹿児島市立病院が第3班(3/23〜26)で出動することが決まった。
鹿児島市医師会病院では3月17日臨時医局会で派遣希望者を募り,内科医1人(山口剛司循環器内科科長),小児科医1人(私)の派遣を決定。看護師2人(小田隆弘看護師,折田富之看護師),連絡事務員1人(倉谷 学総務課副主任)に,大園清信県議会議員(麻酔科医)を加えた6人でJMATを結成した。
私は小児科診療に必要な薬品と診療器具の検討を行ったが,前日の出発前の準備段階においても現地の医療・疾病情報は乏しく,必要薬品は季節柄流行しているであろうインフルエンザや嘔吐下痢症などを想定し薬剤部や看護部の協力を得て準備した。
3月20日(1日目)
午前6時。JMAT全員が病院玄関前に集合し空港へ。空港では災害派遣ということでいろいろな道具を身に着けていたため,身体検査などでひっかかり通過に手間取った隊員もいた。
鹿児島午前8時発,羽田午前9時35分着。荷物をまとめ午前10時過ぎ,待機していた茨城県医師会派遣のジャンボタクシーで一路支援先の北茨城市立総合病院へ向かった。
東北自動車道は先に進むにつれ波打っていたり側面が崩れていたり,周囲の家々も壊れているのが目につくようになった。車内で昼食を済ませ,緊急車両の認定を受けたタクシーは途中で給油した後,北茨城インターで高速道路を降りた。
市内には人影や車は少なく,途中ガソリンスタンドでの給油待ちの車が1km以上の長い列をつくっていた。途中津波の傷跡があちこちみられ,脱線した列車や建物や車の瓦礫が積みあがっていた。
午後1時前に北茨城市立総合病院に到着。
種村院長代行の出迎えを受け,早速臨時医局で第1班との引継ぎを行った。
我々は昼間の診療(小児科,循環器内科,一般内科)と夜間救急当直をすること,食料は持ち合いで寝床は病室を借りることになった。小児科は小児科常勤医がいないので3月20日は午後2時〜午後4時,21〜22日は午前9時〜午後4時,23日は午前9時〜正午の一般診療及び夜間救急患者の対応となった。
<茨城市立総合病院の現状>
3月11日の震災で停電,断水となり入院患者を駐車場等に避難させた。老朽化した本館は壊れ使用不能。夜間は自家発電で応急対応。津波の被害はなかったが発電機の燃料が間もなく切れ,ガス供給も止まり入院継続は困難となり,3月12日,他病院への転院を行うも携帯電話が通じず困難を極めた。まもなくDMAT 3隊が駆け付け午前0時までにほぼ全員の入院患者の搬送を終了。
3月13日以降,日本赤十字社医療チームが市役所と市立病院に救護所を開設し同院職員も24時間体制で救急診療に従事するとともに転院患者や避難所の巡回診療も行った。
3月17日,日本赤十字社医療チームと入れ替わりにJMATが支援活動を開始。
私は早速持ってきた医薬品を薬剤部に届け数量や現有医薬品について薬剤部長と打ち合わせした。断水のためシロップ類など水薬の調剤はできないこと,抗菌剤などは在庫が不足していること,なるべく持ってきた薬剤を有効に使うようにすることとした。
カルテは電子管理下にあり震災後使用不能で,処方は電子オーダーシステムで医師登録後に操作手順を一通り習ったが初めは操作に戸惑った。こうした間にも震度3〜4程度の余震が何回か起こった。現地スタッフは平然としていたが,我々は顔を見合わせ地震だ,地震だとちょっとおっかなびっくりであった。
幸い初日は小児の受診患者は少なく戸惑いながらもなんとか無事終了した。
当直は今夜から3日間,JMATで担うことになった。どれくらいの急患が来るのか不安もあったが,震災後から時間も経っており混雑するほどはなかった。
食事は毎食持参したカップ麺やおにぎり,病院で作ってくれたトン汁などであった。
3月21日(2日目) 雨 寒い
午前7時,朝食時,種村院長代行に話を聞いた。JMATには長く支援をお願いしたい,少なくとも3月いっぱいは支援をお願いしたいとのことだった。多くの職員は通勤手段がなく登院できず,常勤医も12人中7人だけが残っていた。
<病院復旧現状>
水は新館2階のみ使用可能。ガスはまだで給食や滅菌,検査(X線,一般検査),水薬調剤などに支障あり。
午前9時,小児科,循環器内科診療開始。小児患者は予想に反して少ない。ガソリン不足に加え放射能汚染への懸念,断水,食糧不足で子どもを親戚など他の地に疎開させているため少ないようであった。疾病はインフルエンザや上気道炎が多く,熱性けいれんの児も救急搬送された。
3月22日(3日目)
<病院復旧状況>
内科・外科外来は常勤医師による日常診療が始まる。院外薬局も次第に復旧。薬剤の供給も開始されたようだ。ガスが使用できず入院再開はまだ困難。登院できる職員も少人数。
小児科の受診患者は10数人で,発熱,咳の患者が多く嘔吐下痢症やインフルエンザはいなかった。
午後1時,第3班の池田病院(池田琢哉県医師会長)チームが合流。夕方,5カ月児の無熱性群発けいれんの乳児が救急車で搬送され,髄膜炎が懸念されたたため日立総合病院へ入院紹介した。折田看護師と池田病院チームが救急車に同乗し搬送した。
3月23日(4日目)
<病院復旧状況>
遠方の職員も巡回バスを運行して通勤できるようになった。外来業務は日常診療に戻りつつあり患者数の混雑が予想されるとのこと。検査類はまだ不十分。薬剤の供給は順調。
この日の小児科診療は池田病院チームが担当した。
正午,第2班の全支援業務を終了した。
午後1時30分,第4班の鹿児島市立病院チームが合流し引継ぎ。昨日入院をお願いした日立総合病院小児科の先生もちょうど来られて髄膜炎ではなかったことを聞き安心した。種村院長代行や職員の方々に挨拶を済ませ一路羽田へ直行。午後4時過ぎの鹿児島行きに飛び乗り,午後7時30分鹿児島着,午後8時30分鹿児島市医師会病院に無事帰還し解散となった。
今回,JMATに参加し支援活動ができたことは自分にとってはとてもいい経験になった。私にとって災害支援というものの実態はこれまでは漠然としていたが,今回DMAT,日本赤十字社医療チーム,JMATのそれぞれの分担がなんとなく理解できた。そして重要なことは情報のチーム内外の共有であり,それには各チーム間の専任連絡員の存在が不可欠と感じた。特に長期に連続して支援するJMATは,前後の情報伝達は不可欠であり,専任連絡員がいたなら医師・看護師も多くの時間を救援診療に費やせると思った。今後,多くの支援チームがバラバラではなくそれぞれの活動範囲を明確にし,連動した支援ができるようになればJMATの存在も大きいものと思われた。
 |
北茨城市立総合病院 玄関前にて
左から 折田看護師(別枠),小田看護師,
大園県議会議員,池田県医師会長,
山口医師,鮫島医師,倉谷事務員 |

|
|
|
このサイトの文章、画像などを許可なく保存、転載する事を禁止します。
(C)Kagoshima City Medical Association 2011 |