=== 随筆・その他 ===
初めて見たテレビジョン
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図 1 箱型テレビジョン
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図 2 テレビ受信用八木・宇田アンテナ
(上段がVHF用,下段がUHF用)。
広帯域化の工夫がされた八木アンテナである。
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中学に入ったばかりの頃だった。私は東京日本橋三越の階段に並んでいた。物凄い行列で階上も階下も先は見えなかった。だんだん人波に押されて行くうちに当時流行っていた箱型電蓄の正面に画面の映る今で言う箱型テレビジョンが飾られていた(図 1)。何が映っていたか覚えていない。ただ人波に押されて通り過ぎて行った。ただこれだけのことだった。その頃特に鹿児島ではラジオしか無くテレビなど考えもしなかった時代だった。恐らく鹿児島の人間でテレビを見たのは私が初めてだっただろう(1939年;昭和14年)。だから私としては70数年経った今でも忘れられない思い出である。
私が八木アンテナについて知ったのはその頃のことである。少年向けの科学雑誌を読んで指向性テレビアンテナ(VHF,UHF)のことを知った(図 2)。現在では地対空ミサイルのレーダー用パラボラアンテナにも用いられている。日本の学者達はレーダー機能を持つ電探として重く考えていた。然し軍の方は「敵前に電波を出すことは闇夜に提灯を燈してこちらの位置を知らせるようなものだ」といって相手にしなかった。そして軍の機密として以後世間には何も知らされなかった。その間に欧文にて発表された八木アンテナを研究した外国技術者達はレーダー基地を次々に造って日本軍を悩ませたのである。特にミッドウェー海戦で米海軍は八木アンテナにより日本艦隊に大損害を与えたのである。シンガポール占領後,日本軍は“YAGI”なる文字を知らずにイギリス軍の捕虜に質問し,これは日本人の八木という重要な研究家の名前だと教えられて驚いたそうだ。日本の無知に捕虜の方がなお吃驚したことだろう。軍は八木アンテナの抜群の指向性を気付かずに逆に敵に利用されたのである。八木アンテナの発明は世界の電気技術史に残る優秀なものとしてマイルストーンに認定され,東北大キャンパスに残されている。
昭和13年,日本放送協会は世田谷の砧(武蔵野の原野)に当時としては世間の目を引く100mの大アンテナを建ててテレビの研究を始めた。丁度昭和15年には東京でオリンピックが開催される予定だったので,それに間に合うようにベルリンオリンピックの際のドイツ技術陣のテレビ中継を手本としてテレビの研究が進んで行った。ところが昭和13年7月,オリンピックの中止が決定し目標が失われた。然し日本放送協会としては研究を続けることになった。
そこに東北帝大から浜松工高に移っていた高柳健次郎教授を迎え入れてブラウン管の研究を進める一方,内幸町に新しい放送会館が竣工し(1939年;昭和14年),今までの愛宕山放送局から移転した際に砧研究所からのテレビ中継を実施したのである。その時からの映像に中村メイコなどが活躍していた。当時は未だ自動車のプラグや超短波医療器械のビート障害が入るので病院と診療時間の打ち合わせをする程だった。砧と愛宕山を結び富士山を始め関東各地との間でテレビ中継の公開実験を重ねて行った(私が日本橋三越でテレビを見たのはそのときである)。然し,なお不十分な点もあったりしたので暫く公開実験を止めて研究に打ち込んだ結果,次々に改良され非常に鮮明な映像が見れるようになった。然しその頃アメリカではエンパイア・ステート・ビルディングの屋上から(1931年;昭和6年),フランスではエッフェル塔からテレビ電波を出していた(1935年;昭和10年)。以後ヨーロッパで第二次大戦が始まりアジアでは日中戦争が激しくなり人材も資材も乏しくなったため,研究は一時ストップした。
戦後再び熾烈なテレビ研究競争が始まり,今日のカラーテレビの世の中になったのである。私が初めてカラーテレビ,然も衛星放送を見たのは第35代ケネディーアメリカ合衆国大統領銃撃事件の時だった(1963年;昭和38年)。現場の生々しさに非常に驚いたことが凄く印象に残っている。今では何でも無いことだ。このような変遷を経て今日のカラーテレビそれもアナログ・デジタルの時代になったのである。
私が子供の頃見たテレビの実験放送,子供の頃読んだ八木アンテナの話など思い出は尽きない。上記の記載は私の親戚にテレビの研究所であるNHK砧研究所に永らく勤めていた人がいたため執筆することができた。多くの資料を戴いたことを深謝する。
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