アラブの男
飛行機の窓の外にはアラビア半島の荒涼とした大地が広がっていた。そこには木一本生えておらず岩肌を剥き出しにした山があり,乾ききった砂漠があった。自然環境の厳しさを知るには十分な景色だった。
私はバンコクの居心地の良さに絡め捕られる前に,イエメン共和国行きを決め,実行に移した。初めてイエメンの首都,サヌアの旧市街の写真を目にしたのはいつだっただろうか?窓枠の白いペイントと赤みを帯びた日干し煉瓦のコントラストが美しい街並みで,長い歴史を感じさせ,かつ手作業で建設された温かみを感じさせた。私はその写真を見た時,これは是非いつか実際に見に行かねばなるまいと思った。イエメンは治安情勢が不安定で,外国人を標的としたテロ事件もよく起きている。治安に関する不安が無いわけではなかった。治安の問題とは別にビザの問題もあった。日本国籍を有しない私はビザの情報がなかなか入ってこない。バンコクでイエメンの大使館に出向き,係官に書類を見せてもらうことでようやく,空港にてアライバルビザ(到着時に取得できるビザ)の取得が可能であることがわかったのだ。ビザの問題に目処が付き,ある程度の治安の悪さに腹をくくった後,カオサン近くの旅行代理店でサヌア行きの格安航空券を手に入れた。その航空券はこういうものだった。往路はドバイ経由のサヌア行き,復路はバンコクへではなく,バーレーン経由のデリー行きである。私には,極力陸路で旅をして,土地を移動するにつれて景色や文化といったものが変化してゆくのを体感したいという希望があった。それゆえ,アラビア半島の南端という,なかなかルートに組み込みにくいイエメンを,ユーラシア横断のスタート前に訪れてしまうことにしたのだ。
機内で一晩を費やし,サヌアに到着したのは午前中だった。60ドルでアライバルビザを取得し,銀行で20ドルを現地通貨のリエルに両替した。入国審査も何ら問題なかった。しかし,搭乗の際に預けたはずの荷物がなかなか出て来ない。貴重品は当然機内に持ち込んでいるのだが,衣類等は大きなリュックに仕舞ったまま預けたのである。これはいよいよ噂のロストバゲージだなと思い,空港職員に荷物が紛失した旨を告げた。正直なところ,旅も序盤の段階で荷物の大半がなくなってしまったわけだから,気が気ではなかったが,何とか自分を落ち着けようと努めた。対応に当たってくれた職員は,そんな私の焦りや不安に気付いてか,「問題ない,心配するな。明日には届く。」と自信を持って慰めてくれた。彼が言うには,私をバンコクからサヌアまで運んでくれたキャリアは信頼のおける会社で,荷物を失くすことはまずなく,大方ドバイで積み忘れたのだろうとのことだった。
空港で明日まで届くかどうかもわからない荷物を待つわけにもいかず,落ち込んだ気分ではあったが取り敢えず街に出て宿に泊まることにした。右も左もわからず(実際,空港前の大通りもどちら向きに行けば街の中心へ辿り着くのか見当もつかなかった)まごまごしていると,初老のおじさんが話し掛けてきた。私が街の中心に出たいと伝えると,「途中までは一緒だから」と親切にも同行してくれた。ダッバーブ(これまた乗り合いタクシーのような公共交通機関)に乗った後会話を交わしてみると,気象等の自然現象を研究している学者で,「この国で困ったことがあればここに連絡しなさい。」と名刺をくれた。以前シリアを旅した時にも感じたのだが,アラブの男達は本当に親切なのである。時には無骨に,時には無邪気に,その優しさを旅人である我々に示してくれるのだ。私はその親切な学者のおじさんに丁重に礼を述べ,別れを告げて,一人で街の広場へ降り立った。
イエメンの伝統的な服装をしている男達は,腰に「ジャンビーア」と呼ばれる短刀を佩いている。もちろん現代的な洋装をしている者もいるのだが,伝統的な衣装をまとっている者も多い。女性はほぼ全員黒いチャドルで体のラインはおろか目以外の顔も覆っている。敬虔なイスラム教国では,成人女性が夫以外の男性に何かしらアピールするというのは忌み嫌われる。そういう地域では女性との接点はほぼ皆無である。先程私がアラブの男達と限定したのにはそういう理由がある。このイエメンでも,成人女性と言葉を交わす,あるいは素顔を見るということはついぞ無かった。伝統的な衣装に身を包んだ人々,煉瓦造りの古い建築物,灼熱の太陽に取り囲まれたわけだから,時間と空間を越え,異国情緒を感じずにはいられなかった。
ガイドブック片手に立ち尽くしていると,今度は軍服姿の若者が近づいてきた。彼は英語がほとんど話せなかったが,私が通りの名を連呼すると,ジェスチャーでついて来るように促した。その通りまで歩いて10分程度,二人は全く違う言語で会話した。現地の言葉での質問に,意味もわからぬまま,英語で名を名乗ったり日本から来たことなどを答えたが,彼が名前らしきものを発声したり頷いたりしたのをみると,あながち大外れな受け答えではなかったようだ。その通りに着くと彼はまた来た道を戻っていった。この若者に至っては,ついででもないのに私を連れて来てくれたらしい。アラブの男達の優しさに甘える形でどうにか宿に辿り着いた。
 |
写真 1 旧市街の建物
|
チェックインを済ませると,私は早速旧市街の散策へ出掛けた。サヌアは標高2,300mに位置している為,比較的過ごしやすいらしいが日中はやはり日差しがきつい。そんな日差しの中,城壁に囲まれ,路地が迷路のように入り組んだ旧市街を歩いてゆく。両側に5・6階はあろうかという家々が連なっているので,路地は殊更狭く感じられる。家の壁は煉瓦を積み重ねたもので,かつて写真で見たように窓枠の部分が白くペイントされてアクセントになっている(写真 1)。路地には女性がちらほらいたが,やはり黒いチャドルを着てエキゾチックな雰囲気を醸し出している。目しか見れないだけに,かえって想像力を掻き立てられてしまう。遊んでいる子供達ははにかんではいるが屈託ない。この旧市街の風景は,ひょっとしたら,何百年も前と大して変わらないのではないかと思ってしまう。私はそんな,時空を越えた街歩きを心から楽しんだ。街は本当に美しかった。
宿に帰ってしばらくすると,マーシーがやって来た。私のイエメン滞在はマーシー抜きには語れない。マーシーはイエメン人ツアーガイドなのだが,日本人旅行者の間ではちょっとした有名人である。もちろん某有名人に似ているのでそのあだ名が冠せられたわけだが,確かに似てなくもない。マーシーが有名なのは,イエメン国内旅行のマネージメントをマーシーを通さずするのは困難だからであろう。前述のようにイエメン国内には治安の思わしくない地区があり,陸路移動の許可を取るのが難しく空路に頼らねばならなかったり,公共交通機関がない地域での移動手段を手配せねばならなかったりと,不自由が多いのだ。それゆえ,イエメンを旅行する日本人はマーシーの世話になることになり,その話が口頭伝承のように旅行者の間に広がっていくのだ。私がロビーのような一室で床に座って寛いでいると,マーシーがおもむろに入ってきて,多くのアラブの男達がそうするように握手を求めてきた。握手をして名乗り合う時,マーシーは「私はマーシーです。」と本名ではなく,通りのよいあだ名の方を名乗ったのが剽軽でおかしかった。私はついぞ彼の本当の名を知らない。彼も床に腰掛けると,手に持ったビニールの袋から大量の緑の葉っぱを取り出し,その内のいくらかを私にくれた。彼は手本とばかりに葉っぱを幾枚か枝からちぎり,口の中に放り込んだ。そしてむしゃむしゃと咀嚼した。咀嚼した葉は飲み込まず,片方のほっぺに蓄え,葉から出るエキスのみ飲み込むのだと教えてくれた。これがイエメンの嗜好品,「カート」である(写真 2)。
 |
写真 2 イエメンの嗜好品「カート」
|
カートはアカネ科の木の葉っぱで,このエキスを飲むと軽い興奮状態になるという。お隣のサウジアラビアでは麻薬として厳禁されているが,ここイエメンでは合法で,男性の社交には必要不可欠らしい。私もイエメン人気取りでむしゃむしゃしながらマーシーと会話した。さすがにマーシーは旅行者を相手にしているだけあって,英語はなかなか堪能である。英語以外にもフランス語やイタリア語も少し話せるらしい。片言の日本語も知っていた。彼の語学学習帳のようなノートを見せてもらったが,言葉を学ぼうとする貪欲さには驚かされた。生活が懸かっている彼と,英語を話せなくても生きていける環境にある私とでは,意欲も違うはずだ。自己紹介,世間話としているうちに,話は徐々に私のイエメン滞在期間中のことに移ってきた。私は「そら来たぞ」と思った。彼もツアーガイドで口を糊しているわけだから,私を商売の相手として見るのは当然だ。滞在期間の短い私としても,マーシーの力なしでは効率的な行動が取れないので,こういう機会を待っていたともいえる。「明日からどうするんだ?」「取り敢えず明日は空港に行かなければならない。紛失した荷物が届くかもしれないから。」「なに?荷物がなくなったのか?どの航空会社だ?どこから搭乗して来たんだ?空港職員にはちゃんと言ったのか?」思いもかけずマーシーは私のリュック行方不明事件に興味を示し,親身に話を聞いてくれた。「よし。任せておけ。オレも明日一緒に空港に行ってやる。」インドやイスラム圏でのこの種の押し出しの強さには時に辟易させられるのだが,何せ現地の言葉がわかるマーシーが同行してくれるなら心強い。お礼ははずむとして是非手伝ってもらおう。「おお,それは助かる。よろしく頼む。」「ところで明後日以降はどうするんだ?サヌア近郊を巡るこういうお得なツアーがあるんだが・・・。」その後様々なツアーの内容や料金を説明された後,「さあ,どうする?」と聞かれたが,私の出した答えは「まあ考えておくよ。」こういう場面では焦って結論を出しては駄目なのである。マーシーも,カートで上機嫌だからか,気を悪くするでもなく,「そうか,では明日は7時30分に宿に迎えに来る。」と言って帰って行った。ちなみに私にはカートの良さはあまりわからなかった。
翌日,マーシーは時間通りに宿に現れた。今日は言葉少なに私を先導して歩いてゆく。朝食を摂る為,一軒の食堂に入った。マーシーが注文し,出されたのはパンと石鍋にぐつぐつと煮え立ったシチューのようなもの,そしてお茶だった。パンをシチューのようなものに浸けていただくようだ。お金を払う段になって,私は空港について来てもらうのだから食事ぐらい奢ろうと思っていたのだが,マーシーは決して私に払わせなかった。食事はおろか空港までの交通費も私の分まで支払ってしまった。どうしてそうまでしてくれるのかと尋ねると,「お前はこの国の客人だ。困っているお前を助けるのはこの国の人間として当然だ。」と答えた。いったい何なのだろうこのホスピタリティーは?日本での常識からすれば,ここまでの応対をするだろうか?これは民族の気質の違いなのだろうか?あるいは我々がもはや失ってしまったものなのだろうか?とにかく私は,マーシーの一本気なもてなしの心が嬉しかった。最初は色々手を差し延べてくれることに対して申し訳なく思っていたが,そう思う必要はないと感じ出した。マーシーがもてなそうとしてくれるなら,今はそれに甘えて,後でまたそのもてなしに対して私も心から御礼をすればいいのだ。
空港でもマーシーはコネを使って立ち回ってくれた。幸いなことにリュックは無事戻って来た。私が荷物を手にして喜んだ時,マーシーが見せた笑顔を忘れることが出来ない。
本原稿は社会医療法人緑泉会において発行されている広報誌「Break Times(No.32 2010. 10. 25発行)」に掲載されたものをご寄稿いただきました。
(編集委員会) |

|