引揚者の家には1軒あたり5畝,飛行場跡を貸すというので我が家も借りた。学校が終った午後3時頃から,中学5年の私と女学校2年の妹と鍬を持って4km離れた土地まで行った。陽が沈むまで耕す。雑草と小石のまじったやせた土地だ。6月末ようやく畝を立て終った。水1本,菓子1個持って行くわけでもないので疲れはひどかった。
7月,親戚に貰った唐芋の苗を植えた。肥料が運べればよいのだが道具もないので無理だった。
8月初め,私は夏かぜをひいた。2週間経っても熱が下がらないので,親戚の病院へ行った。胸写を撮られ,右上肺野の肺結核とわかった。
大した治療もない時代で,結局2年間休学することになった。
私が医学生の時,外科の教授が「発病は内因と外因との関係で起こる。」とおっしゃった。
私の内因は弱かったのだ。それで外因に敗けて発病したのだ。同じ仕事をした妹は,高看の入試の時,右肺野にナルベ(瘢痕)がみつかったが大角をとり,発生はしていないと合格になった。
10月,元気な者で芋掘りに行った。然し出て来たものは藁楷みたいなもので食べ物にはならなかった。
復学・就職
翌年の秋になってようやく私の身体も熱が出なくなった。喀血はないのでいつかは治るとは思っていたが,毎日いつ治るだろうかとそのことばかり考えて過していた。病人だから特別の滋養物を摂るというわけにはいかない家計だった。熱が出なくなると身体の怠さが取れ,少しずつ家の手伝いが出来るようになった。
明けて昭和24年には復学できるまでに回復した。中学は無くなり新制高校となった。私は2年生に復学資格があったが,1年生からやり直そうかと考えた。然し妹が1年生に上がってくるので,兄妹で1年生は間が悪かろうと2年生に復学させてもらうことにした。この判断は間違いでなかったことが後日わかった。
昭和26年3月,高校を卒業した。今考えると高校まで出してもらったことは有難いことである。大学は何とか自分の力で行けても,高校は自分の力で行くことは難しかった。
大学へ行きたかったが家計が許さなかった。4〜5年働いて金を貯め大学へ進むことを考えた。
就職難の時代であった。肺結核の既往を持つ私にとってはハンディは大きかった。試験を受けても受けてもはねられた。
遊んでおれる身分ではなく行商を始めた。初めは自転車も買えず篭に干物を入れて歩いて廻った。5月初め,ようやく古自転車を手に入れ,生物を売って廻るようになった。
4月初め,最後の試験である小学校代用教員の試験を受けておいたが,5月上旬50人位が呼ばれ面接があった。数人の同級生はその場で採用校を指示されたが,私は駄目だった。
こんな行商を続けているようでは疲れて大学受験どころではない。私は悲観的になった。こんな苦労をして生きて行くより死んだ方がましだとさえ考えるようになった。
朗報と労報
7月上旬,妹を通して,私の勤務小学校が知らされた。球磨川上流山村の岩野小学校に空きが出来たのでそこに決めたという高校の恩師からのお知らせであった。恩師の御尽力と岩野小の教頭先生が私の採用試験がトップであったことを知っての要望であったようだ。やはり銀より金だ。試験を受けたのはドングリの背くらべで誰がトップになってもおかしくはなかったが,運よく私がトップになれたらしい。
登校してみると,人吉高2級上と,本年農業高校を卒業した人が独身でいた。農校から助教員になれる人は稀なので優秀な人と思った。
然し教頭さんが欲しかったのは,試験トップだった私を彼の息子の家庭教師にするためであることが後で判った。
8月初め,下宿にも落ち着いてようやく村の生活に慣れて来たある日,父から一通のハガキが届いた。「R子が家出した。そちらに来ていないか。」来てはいなかったが真相を知る為,翌日家へ帰った。
幸い姉だけがいた。妹がバイトに出ている間に父が妹の日記を見付け出し,それを読んで立腹し,「殺してやる。」と妹の帰りを待っていたそうだ。姉は道路へ出て妹を待ち,妹の姿をみるとすぐ駆け寄って友人の家へ逃げるように言ったそうだ。
私は姉からそれだけ聞くと,友人の家へ急いだ。割と元気にしていた。「悪いようにはしないから安心して暫くここにお世話になっていなさい。」と言って私は高校の恩師の家へ行った。私は全てを先生に話した。
先生は,「君の所へ連れて行きなさい。学校も転校させなさい。手続きは全て私の方でやっておくので心配いらない。」と言って下さった。
私は妹に,「2〜3日待ちなさい。家を見付けて必ず迎えに来るから。」と言って一旦下宿へ帰った。妹と同学年になっていなくてよかったと思った。2人で間借りできる部屋が,下宿のすぐ近くに見付かった。下宿のおばさんのおかげであった。新しい高校までは自転車で40分だ。夏休み中妹に自転車の乗り方を教えた。
妹の卒後の進路について話した。「我々バックのない人間には,人吉ではいい仕事につけない。それに見付かる心配もある。福岡の高看に行きなさい。公立だったら月3千円の小使いがあればいいそうだ。3年間,私が送金してやる。」妹は九大の高看へ進んだ。妹の進学が済んで,私は教頭先生の家へ下宿し,中学生の息子さんの家庭教師をすることになった。
今までの心労が積ったのか,2回目の発病を起した。受験勉強を止め,小説を読んでゆっくりと過ごした。三者併用が使えるようになっていたので治りは早かった。
昭和34年4月,8年間勤めた山村の小学校から免田町の小学校へ転勤になった。片道30分の汽車通勤となり自宅から通勤できるので何かと便利であった。
6月,父兄参観の授業があった。私は6年生の担任であった。1週間後ある同僚が,「あなたは頼りない先生と父兄から言われているよ。」と言った。私はこれを神の啓示と受け取った。この4月・5月何をしていたのか。大学へ行くのだ。そう強く思った。その夜から受験勉強を再開した。予備校もない町なので頼れるのは自分だけだ。教員達が職員室でダベっている間,教室で受験勉強をした。目に物を見せてやると思った。
終 章
免田町には映画館が1軒あった。学期1回,生徒を連れて映画を観に行くので,映画館は毎月職員1人に1枚の無料券をくれた。私は使わないのでいつも小使さんにあげた。
当直が月1回か2回廻って来た。夜8時と10時,校舎と校庭を見廻ればよかった。学校の近くに下宿している新人が,私の当直の時,時たましゃべりに来た。私は受験雑誌をカバンに押し込んで相手をした。大学受験のことは家族以外には誰にも話していなかった。彼はたまに一緒に見廻りをしてくれた。近くにしゃべる様な相手がいないのだと思った。
免田小に勤めて1年位経ったある当直の夜,小使さんの上の娘さんが当直室へやって来た。小使い室,土間,当直室と続いている。この人には3年位の女の子がいて,時々2人で両親の処へ泊りにくる。私は映画券のお礼でも言いに来たのだろうと,例の如く受験雑誌をカバンに詰めて待った。
「妹と結婚してくれませんか。」お姉さんはこう切り出した。私は慌てた。今やっと受験勉強が軌道に乗り出したばかりだ。これからどう動くかもわからない。結婚より先にやることがあるのだ。
「独身の男性は5〜6人いるではないですか。皆いい人達ですよ。」
「いやあなたがいいのです。」
本人はナースをしているらしく体格が良く美人である。私が医学生ででもあるならOKしたかも知れない。本人とまともに会ったことはなく,しゃべったこともないが雰囲気で判る。
私は相手を傷つけないよう上手に断わらねばならなかった。
「金(カネ)だ」その時閃いた。私は続けた。「私は最近土地・家を手に入れ借金だらけです。あと1〜2年すれば何とかなりますが,はっきりとは言えません。借金の多い家に嫁を迎えることはためらわれます。」実際,私は両親をおいて借家住まいのまま出ていくわけには行かないと考えていた。だから今まで学資として貯めてきた金を注いで,小さな土地と小さな家を手に入れたばかりだった。それだけでは足りず借金もした。
大学へ進めば何とか払えるだろうと高をくくっていた。
相手は納得したかどうか不明であったが,一応その場は切りぬけたと思った。私は受験勉強を続けた。それから2年後,念願の大学進学を果たした。教員になって11年後のことであった。
「逃がした魚は大きい」という。私は大きな魚を逃がしたのではないかと思うことがある。彼女は今頃,何処で誰とどんな生活をしているだろうかと思うことがあるが,詮方ないことである。

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