私の家は昭和の初め頃は当時の武駅(西鹿児島駅),現在の中央駅の直ぐ裏手にあった。未だ開発途中であったが次第に周囲の田圃が埋め立てられ,新築の家が次々に建てられ,今の郊外の新開地みたいだった。当時の城西通りは未だ広い田圃で,春になると畦道の蓬を摘みに行くもので,蓮華草や菜の花の花盛りの時は田圃が赤や黄色の絨毯のようでとても奇麗だった。
*その頃,隣にキンチャンと呼ぶ2〜3歳年上の女の子がいてよく遊びに来ていた。ある日,家に来て玄関の次の間に入り,「あれをしよう」と言う。何が何だかわからない,私のパンツを脱がせ自分も脱いで重なってきた。彼女は親のするのを見ていたらしい。何だかホンワリとしてきたその時,突然ガラッと戸が開いて私の母親が帰ってきた。キンチャンは部屋を飛び出して逃げた。母は呆然としている私を見下ろして黙って隣の部屋に消えていった。
只これだけのことだったが,80年経った今でも妙に忘れられない。あの娘も90に近い筈だ,どうしているだろう。
今でも鹿児島中央駅(旧 西鹿児島駅)裏を通るとあの頃鉄道線路脇に金魚池が段々状に並んでいたこと,田圃の畦で蓬を摘んだこと,小間物屋さん(現存している)で凧や独楽,ニッキ(肉桂)等を買いに行ったことなどを思い出す。徒然なるままに幼い頃の思い出を綴ってみた。
*幼い頃千石馬場の家の向かい側に外科の病院があって,そこに2〜3歳年下の可愛い姉妹がいた。広い屋敷にラジオのアンテナが張ってあり,座敷には鉱石検波のラジオがあった。そこの先生がレシーバーで音を聞かせてくれるものだった。その屋敷に時々遊びに行って,満開の桜の花の下でそこの女の子とままごとをして遊んだ。楽しかった。塀の外から近所のガキどもが,「女子ん真んなけ男がひとーーい(おなごんまんなけおとこがひと
ーい)」と囃したものだ。当時,特に鹿児島では男女の交際は軟弱,軟派としてひどく嫌
われていた時代だった。
その頃の歌を覚えている。
“小さい時から許婚,二人で真似たままごとの
庭に桜の散るにさえ 遠い昔が忘らりょうか”
“二人が大きくなってから やさしい恋の巡礼者
貴方は貴方の道を行き 私は私の道を行く”
戦後,私の家もあの病院もなくなった。家同士の付き合いをしていたあの家族は誰もいない。あの娘達はどうしているだろうか。もう80を超えているだろう。どうせもう生きてはおるまいが時々懐かしく思い出す。
*今では二十歳といえば「成人式」で,男女とも飾り立ててお祭り気分だ。然し私たちが二十歳になると,「徴兵検査」が待ち構えていた。厳しかった。私の検査場は市の公会堂(今の鹿児島中央公民館)だった。あちこち検査してから一同玄関前の広場に出て,5人ぐらいずつ並んで越中褌を外し,スッポンポンにさせられた。黒々とした毛並みと共に初めてのペニスの日光浴だ。衆人環視の中で恥ずかしいだの嫌だのとは言えない,ヤケクソ気分だった。突然軍医か衛生兵が来て各人のペニスをギュッと握って行く,それで終わり。淋病の検査だということだった。
市立公会堂(中央公民館)と県文化センター(宝山ホール)の境の広場を見るとあの時を思い出す。
幼い頃から成人になった徴兵検査までの懐かしい思い出だ。平和の世から戦時体制に移っていったものだ。
|