昨年(2010)7月,鹿児島市と友好都市盟約を結んでいる長沙市を久し振りに訪れた。初めての中国訪問は,文化大革命の混乱がほぼ終了した1976年から間もなくの1980年で,「日本公衆衛生代表団」(団長:鈴木武夫国立公衆衛生院次長)の一員として訪れた。今回は,以来11度目,長沙市へは,1985年に初めて訪れて以来6度目の訪問であった。近年の中国の経済発展は目覚ましく,GDP(国内総生産)は昨年遂にわが国を抜き世界第2位になり,社会的にも急速に大きく変貌しつつある。
そこで,この4半世紀の長沙市訪問を少し振り返ってみたい。
長沙市への初めての訪問
1985年の訪問は,1980年に初めて中国を訪問した折に知己となった中国医科大学の馮 兆良教授の紹介で,長沙市にある湖南医学院(1987年に湖南医科大学と改称)の王 翔朴教授(予防医学研究所長)を紹介されたことに始まる。ちなみに,この大学は,エール財団を基礎に1914年に湘雅医学専門学校として設立され,1985年当時は中国中央政府衛生部直轄の重点大学(日本の旧帝国大学に相当する)であり,在校生8,000人以上,教授・準教授数約100人,医学教育を英語のみ行うコースがあるなど極めてアクティブな大学であった。
この年の7月,中国における労働衛生領域の第一人者を集めた「衛生事業報告会」(労働衛生シンポジウム)に招聘され,上海から寝台急行列車で26時間かけて長沙市へ向かった。車内は扇風機のみで38℃を記録し,蚊と暑さには閉口した。車窓からは,太平洋戦争頃の日本の農村風景であった「千把こき」(稲の脱穀用農具)による脱穀や,天秤で農作物を運ぶ農民の姿などが眺められた。
初めての長沙訪問で行ったこと
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写真 1 斉 振瑛市長(右)と筆者
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この訪問では,シンポジウムでの研究者との学術交流や関連施設の視察・見学のほか,王教授との共同研究の協議,橋村三郎鹿児島大学医学部長から羅 嘉典湖南医学院長宛の両大学の交流促進のメッセージ持参,1982年10月に友好都市盟約が締結された鹿児島市の赤崎義則市長から長沙市の斉
振瑛市長宛の友好促進のメッセージの持参などを行った。斉市長訪問(写真1)は,現地のマスコミでも大きく取り上げられ,市長主催の盛大な歓迎晩餐会に招待され,中国酒を飲み交わして大いに友好を深めた。
この機会に得た中国の興味ある情報は極めて多かったが,その一つは中国の医療保険制度についてであった。
*この頃の中国の医療保障制度:
中国では1982年に人民公社が解体したが,従来は使用者責任方式が原則で,@公費医療(職員・幹部・労働者・大学生に適用,本人全額・労働者家族半額給付),A労働保険(企業労働者,本人全額給付),B合作医療(人民公社員,生産団体の活動状況により給付内容に差異あり)の3本柱が基本との話であった。しかし,1978年からの対外経済開放政策の具体化以降,このセーフティーネットが崩れ始めて混乱している様子であった。
その後の訪問と学術交流の発展
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写真 2 陳副学長ら来学
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私の初回の訪問を契機にして,湖南医科大学と鹿大医学部・歯学部の他の教室を含めた研究者の種々の共同研究や交流,留学生の受け入れなどが次第に進んで行った。そして,1992年9月,湖南医科大学の陳 服文副学長と晏 仲舒外事処長が来学して鹿児島大学と湖南医科大学の学術交流協定締結の協議が行われ (写真2),1993年6月に正式締結の運びになったことは,大変嬉しいことであった。
なお,湖南医科大学は2000年4月,中南工科大学及び長沙鉄道大学と統合され,理学・工学・医学・文学・法学・経済学など10学部を有する中国教育省直轄の国家重点大学の一つ「中南大学」になっている(中南大学の詳細は,ホームページ:http://www.csu.edu.cn/を参照)。
ところで,私自身は,初回の訪問以降,王翔朴教授などとの共同研究の実施や留学生の受け入れなどを行い,1994年10月には湖南医科大学創立80周年記念式典に招聘され,雛壇で祝辞を述べる栄誉にも浴した。
なお,中国からの留学生諸君のお陰で私たちの研究室は大いに活性化され,他方,留学生諸君も,他の教室や他大学・研究所などの先生方の温かいご協力を得て優れた業績を上げた。そして,例えば,王 翔朴教授の子息の王 鋼君は,鹿大工学部で初めての外国人教授として40歳で生体工学科教授に就任するなど,それぞれの分野で大活躍していることは,大変嬉しいことである。
今回の訪問では
昨年の訪問は,予てから来訪を勧められていた羅丹留学生夫妻らの骨折りで,中南大学
公共衛生学院の肖 水源院長の招聘を受け,鹿児島純心女子大学の久留一郎教授とともに11年振りに長沙市を訪れた。折しも,本部では中南大学創立10周年記念式典が,医学部では附属湘雅医院の新病院の開所式典が華やかに開催された日で,これに参列することが出来た。また,最初の訪問以来知己の多くの友人たち(その若干名は既に第一線を退き,若者だった人たちは教授や副学長などの要職に就き活躍していた)から熱烈な歓迎を受け,大いに旧交を温めた。
私自身は鹿大を退職して久しく,具体的なお手伝いは出来難いが,この4半世紀来続いてきた鹿大と現在の中南大学との交流が,今後,益々発展することを期待している。
*長沙市の現況と中国における課題:
垣間見た長沙市の状況は,以前は土砂道であった道路は綺麗に舗装され,高速道路も整備され,自転車の洪水に代わって自動車で交通渋滞が生じ,地下鉄工事や高層ビルなどの建設ラッシュで,街の様子は以前とすっかり様変わりしていた。ちなみに,友好都市盟約締結を記念して長沙市から寄贈された「共月亭」の返礼に鹿児島市から寄贈された「友好和平」碑(中村晋也作)が設置されている暁園公園周辺は,高層建築が林立していた(写真3)。
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写真 3 鹿児島市寄贈の「友好和平」碑(左:1985年,右:2010年)
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マスコミ等でも報道されているように,政府が改革開放政策を強力に推進した結果,国民の生活水準は大きく飛躍したが,特に沿岸都市部と内陸農村部との経済格差や貧富の格差が極端に拡大し,民族問題なども加わり大きな社会問題となっている。
中国では,私が初めて訪れた頃から,予防接種や公衆衛生には力点が置かれ,その達成度は相対的にかなり高いと評価されている(環境問題への取り組みはまだまだ不十分ではあるが)。他方,医療保障制度や教育・年金などに関しては,市場原理の導入で大きな格差社会を生み,解決すべき課題が多いようである。
*中国の最近の医療保険制度:
中国の最近の医療保険制度は,戸籍制度により農村部(農村戸籍)と都市部(都市戸籍)では制度が大きく異なる。政府は,1998年に導入された,@都市従業員基本医療保険制度(被雇用者のみ個人加入,給付は外来と入院)と,A新型農村合作医療制度(世帯全員の一括加入,給付は主に入院)のほか,これらの適用除外の学生・児童・高齢者向けの,B都市住民基本医療保険制度(個人加入,給付は主に入院)の3本柱の普及を図っているという。しかし,戸籍制度に基づく制度区分は,国内人口が大きく流動化する中では農民工は都市従業員基本保険制度へ加入し難く,新型農村合作医療制度も貧困層は保険料と自己負担の高さや医療費高騰などの影響で利用が極めて困難であり,政府が目指す実質「皆保険」の実現や医療の不公平性の是正は程遠いようである。
おわりに
これから4半世紀後,私は百歳を超えて鬼籍に入っているだろうが,その頃,日本や中国は果たしてどのような社会になっているであろうか?
願わくは,拝金主義や格差社会などは是正され,国民に等しくスピリチュアルにも健康で文化的生活が保障されている社会になっていることを期待したいものである。

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