=== 新春随筆 ===

80年の人生



西区・武岡支部
(西橋内科)

          西橋 弘成
 1月で80歳になる。もうこんな年になったのかと驚く。まだ50歳位の心情だ。私が小学生の頃は80歳の老人は少なかったと思う。この80年間を私はどのように過して来たのだろうか。今を生きることに懸命で過去を振り返ることは殆どないが,区切のよい年で一度振り返ってみるのもよかろう。

 0歳〜1歳:今は外国となった台湾で生まれ,間もなく熊本県人吉町へ帰って来たそうだ。何も知らない。母乳を吸うことばかりやっていたのだろう。

 2歳:師走もおし迫った或る夜,私は祖父に背負われ,上から羽織を裏返しにかぶせられて,人吉町の道を何処かへ向かっていた。母が後から小走りについて来る。祖父の背中で,その時はじめて僕はこんな町に生きているのかと感じた。1分そこらの時間だ。その後のことは覚えていない。後年,母に聞いたところによると祖父は母の父で近くに住んでおり,私がジフテリアに罹ったので急いで病院へ行ったのだそうだ。父は次の仕事を探すため留守だったらしい。1〜2日遅れていたら私はこの世にいなかったそうだ。

 3歳:熊本市で父が石けん造りを始めた。土間に大きな釜が埋めてあった。深さ5m,直径4m位あっただろう。ある日,私はその釜に入れられた。底から見上げると天井が高い。指でかいてもツルツル滑るだけ。(誰か助けに来ないかな)天井をみつめてそう思っている。誰も来ない。母では降りようがない。何分経っただろうか。梯子が入れられた。男の人が降りてくる。手伝いに来ている親戚のお兄さんだ。おんぶされて土間に上がった。父は留守だったのか,その後は何もなかった。私が悪戯をしたか,何かでダダをこねたかして父に入れられたのだろう。
 私の家の隣に板塀で囲んだ家があり,そこに姉と同い年(5歳)の女の子がいた。時々,2人は口喧嘩をした。姉が帰って来てそのこと話すと,私は「いやちゃんがやっけてくる(口がまわらず『弘(ヒロ)ちゃん』と言うところが『いやちゃん』になっていたのだ)」て言って,隣の板塀に(ペッ,ペッ)と唾を吐きかけて,「やっけて来たよ」と言ったものだ。
 新唐芋が採れる秋になった。母が芋を買って来て,台所で水飴を作り出した。大分煮詰まったので最後の煮詰めをするために座敷の角火鉢に鍋を掛けに来た。そこで悲劇が起こった。水飴が出来る嬉しさで私は火鉢の縁に腰掛けて,両足をブラブラさせていた。足は畳には届かなかった。一瞬バランスを崩したのだろう,後へ倒れ左頭半分が水飴の鍋へ落ちた。「ギャー」と私は叫んだ。台所から母が飛んで来た。そこで私の記憶は途切れる。
 6日位後,母は頭一杯白い包帯を巻いた私を抱いて表に出ていた。そこへ近くの主婦が通りかかり,「どうしたの」と尋ねられたようだ。「やけどをして熊大病院へ連れて行った。下手すると左半分は禿げになるかもと言われた。」と母は話したようだ。主婦は,「近くに禿の特効薬の軟膏を売っている人がいるからその軟膏を使いなさい。熊大へ行くのは止めなさい。」と助言された。母はその通りにした。一部化膿したのか悪臭が暫く続いたそうだが,6ヶ月後に10円硬貨大の禿が残ったが,まわりは髪が生えてきて元のようになった。

 4歳〜5歳:父の仕事がうまくいかなくなって,父が若い時勤めていた台湾製糖の分工場が福岡県荒木村にあったので,そこへ就職することになった。一家は荒木村に転居した。工場のまわりに社宅があり,社宅に入居した。手頃な友達がいないので私は社宅の前の広場で一人で遊ぶことが多かった。ある日,父が三輪車を買って来てくれた。これで一人遊びも楽しくなった。広場や工場の安全を祈願するために作られた神社の庭などを乗り回した。夏には稲穂が緑に繁る田圃に妹を連れて小魚取りに出掛けたりした。然し,道具を持っている訳でもなく素手で捕まえようとするのだから,私に捕まえられるようなまぬけな魚はいなかった。
 ある日,また神社の境内に三輪車で行った。境内を2〜3周して家へ帰ろうと神社の表側に出た。石段が7段位ある。三輪車を抱えて降りるには重い。石段の横の土手を滑らすことにした。三輪車は真っ直ぐ下って行ったが下に着くとひっくり返った。近づいてみるとハンドルが折れている。ああ,これじゃもう使えないなと思いながら家へ持って帰った。夜,父に壊れた経緯を話した。父は,私が三輪車に飽きて計画的に壊したように受け取ったようだ。怒られはしなかった。3週間位経って,今度は二輪車を買って来てくれた。近所には二輪車を持っている子はいなかった。補助車の着いたままで乗り方を練習した。2つ上の姉も練習した。3ヶ月も経つと補助車が地面を支えなくなった。父は自転車店に行って補助車を取り外してもらった。これで運転が自由になった。ある日曜,父が私と姉を8q南の神社へ連れて行った。父は自転車,私は姉と交替で二輪車を漕いだ。二輪車は車輪が小さいので何倍も漕がねばならない。ついて行くのに大変疲れた。また,ある日は1q離れた高良台と呼ぶ丘へサイクリングに3人で行った。妹は3歳なので母と留守番。丘は赤土で所々に山つつじが生えている。分厚いコンクリートのトーチカもある。支那の国土と陣地が似ている。対支那戦を考えて陸軍が時々練習したらしい。
 丘の頂まで上がって帰途に着いた。下り坂をつつじを避けながら下りていく。姉は父の自転車に乗せてもらい私が二輪車でついて行く。つつじを避けながら余り厳しくない坂を下りていく。だがブレーキのかけかたが甘かったのか,30m位下った時つつじを避けきれず真正面から突っ込んだ。もんどりうってつつじの前へ落ちた。然し,土が柔かかったのと背中から落ちたので怪我は無かった。痛みも殆ど無かった。父と姉が心配してやって来たが二輪車に乗って家へ帰れた。
 8月,新しい講堂を建てるための基礎作りが始まった。人夫さんが掘った溝の底に大きい木材を上から落して固めるのだ。この仕事は父兄のボランティアである。お父さん達は仕事があるので,殆どお母さん達が出て来ている。私と妹は母達が仕事する傍らで,掘り上げられている土で遊んでいた。ボランティアの仕事は1週間位で終った。

 6歳:小学校に入学する年になった。4月,新しく出来た講堂で入学式が行われた。その頃の福岡県三潴郡で最も上等な講堂と言われた。暗幕があり演壇も前と後とにあった。
 入学式が終って夫々の教室へ移動した。1学年3クラスで私は1組の男子組,2組が男女組,3組が女子組だ。父兄も一緒に教室へ移った。教室へ入ると,今まで見えていた母の顔が見当らない。私は半分泣きべそをかいて「母ちゃん」と小声で言って教室の後の方を探した。1番後に母の顔が見えた。それで安心して椅子に座った。担任は内田と言う若い男の先生だった。
 社宅から学校までは私の足で10分位だった。途中に村役場と警察署があった。役場の入口には水槽があって,赤や黒の鯉が5〜6匹泳いでいた。それを眺めたり,農閑期には水が流れない水路の中を歩いたりして学校へ行った。帰りも同じ様なことをした。社宅には同級生も同期生もいなかった。だから1人で登下校した。
 学校の休み時間は何をしていたのだろうか。まだ仲間が出来ていなかったから何をしていたかはっきり覚えていない。学校に入る少し前から壁に向って逆立ちをする練習をしていたので,5月の初頃からは黒板の横の壁に向って逆立ちを始めた。3週間位経った時,先生が畳を1枚もって来て敷いて下さった。それで落ちた時膝が痛くなくなった。それから2人の級友が「僕達にもやらせて」と加わった。(つづく)




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