=== 新春随筆 ===

       36  年  史  ?
(S50年生)


南区・谷山支部
(Tsukasa Health Care Hospital)

 塚田  彩
 新年明けましておめでとうございます。
 卯年にあたり,せっかくこのような機会を頂いたので,もうすぐ36年になる私の人生を少し振り返ってみたいと思う。

 今まで生きてきた道を思い返して考えた時に,浮かぶのは失敗したことや苦労したことばかり。楽しかったことや上手くいったこともいろいろあるが,印象に残り役に立っているのは,失敗・苦労体験の方である。その中でも,特に人間として,医者として,教わることの多かった出来事を3つ挙げるとすれば,@出産(長期入院込み)と子どもたちの発達障害,A離婚(結婚でなくて残念…),B精神科の患者さんたちとの関わり,だろうか。共通して学んだことは,人間体験してみないと本当の苦しさや喜びはわからないこと,その時は苦しくて立ち上がれないほどもがいて,もうどうにもならないと思えたことも,時間が経つと価値のある体験になること,そして,自分に余裕がないと,自分が幸せでないと,人を支えるなんてとても出来ないこと,である。

 長男を妊娠した時,私は研修医で離島にいた。2日に1度の当直と4日に1度の救急当直で眠れない日も多く,17週の時,切迫流産で入院することになってしまった。それまで‘同僚’だった産婦人科のDr.が‘主治医’になり,小児科のDr.には,「島では今は絶対に産むな!25週まで我慢しろ!!」と言われ,結局,途中で市立病院に移り37週で退院するまで,それまでになくゆったりとした,でも早産の不安で緊張しながらの患者生活を送った。妊婦の大きなお腹で,呼ばれてから着替え,シャワー,身体を拭いて,服を着て,次の人が来るまで15分しかない入浴に悪戦苦闘し,「こりゃ無理だ…。下着をはくのに転倒して早産になる!」と思ったことや,行動を制限されている中で身の回りのことをスタッフにお願いしなければいけないとき,忙しそうで怖そうな顔をされるとなかなか言い出せないこと,検査の時のスタッフの「あれ?」とか「あっ!」という何気ない一言にビクビクしたり,結果が悪く落ち込んでいる時に,スタッフステーションから聞こえる爆笑やおしゃべりが悲しかったりすることなど,医療者側にいるときには気付かなかった‘患者の世界’を体験する貴重な機会になった。そのせいで,今も診察の最後にしつこく何度も「他に気になること,困ったことはないですか?」と尋ねてしまうのかもしれない。
 長男は,生まれてみると3,776gの元気な肩が大きい子で,私自身に糖尿病の疑いがかかり精査し(結果はシロ),傷口の血腫の処置で退院が延び,産後,象足と高血圧と円座頼りの1ヶ月を過ごした。その時にむくみ慣れしてしまった私の足は,次男の妊娠中,常にパンパンで蛋白尿も続いたものの,何とか仕事を続けながら出産できた。
 長男,次男とも,幼稚園に入園し年中の頃から,徐々にAD/HD(注意欠陥/多動性障害)らしい不注意さが見られるようになってきた。長男が小学校に入学すると,それまでの‘遊び’が‘課題’に変わり,それを‘ちゃんと’こなさなければという周囲からのプレッシャーで本人は相当ダメージを受けていたのだろう。家の外ではしっかりした良い子でいないといけないという本人なりのプレッシャーも加わり,次第に腹痛や頭痛が増え,家でかんしゃくを起こしたり,弟や私に手をあげたりするようになった。それでも,そのことで一番悩んでいたのは長男自身で,1年生の秋,「お母さん,ぼく死にたい。ぼくを殺して…。」と泣きながら言われた時,我が子にどうにもならないほどの葛藤と苦しみを抱え込ませてしまっていたことに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。同時に,母親として絶対に子どもたちを守ろう,自信を持って生きていけるようにサポートしようと決意した。今,仕事で発達障害の分野に取り組んでいるのもその影響が大きい。
 …とはいえ,AD/HDの日常は本当に大変である。まだまだ世間一般に認知されているわけでもなく,はたから見ると,一見,何でもない子だったり,しつけのなってないわがままな子(親)だったりしても,本人,家族の苦労はおそらく当事者にしかわからない凄まじいものである。しかし,‘普通’の子のように課題に対する集中を持続させたり,テキパキと順序良く物事をこなしたりするのは難しくても,豊かな発想や興味のあることに対する集中力の凄さ,子供っぽいけれど愛嬌のあるキャラクターは,一種の才能であり憎めない。おかげさまで長男の情緒もだいぶ安定して,本人なりに一生懸命,毎日頑張っている。まだまだ私の方が,ついイライラして厳しく叱ってしまうこともあるが,小さな‘できた’に感動し,生活の中にたくさんの幸せとありがとうを見つけられるようになったのは,子どもたちが後天的に与えてくれた私の‘才能’かもしれない。
 今年は,次男が小学校に入学する。今度はもう少し‘良いお母さん’になれるかな…?

 医者になりたいと最初に思ったのは,小学生の頃だろうか。その頃,二人の祖父や恩師,同級生などたくさんの死に遭遇し,大好きな人たちが苦しみ去って行ってしまうことに何も出来ない自分が悔しかったのかもしれない。医学部に進学し,卒業後の進路を決める際,学生時代の知識や技術では,実際に何も出来ないことに不安を感じ,まずは誰か人が倒れていた時に何か出来るようにと麻酔科蘇生科を選んだ。その後,いろいろな偶然が重なり,吸い寄せられるように精神科の道へと進んで,今ここにいる。
 精神科は,体力,精神力の勝負である。大きなエネルギーでぶつかってくる患者さんと向き合うには,こちらも大きなエネルギーと覚悟が必要で,ヘロヘロになってしまう。急性期で理性が薄れた状態の患者さんほど,本質を突いた‘痛い’言葉を投げかけてくれ,反省したり気を引き締めたりする機会を与えてくれる。検査結果という形での説得材料が乏しく,病識もないことが多いため,治療に苦労するが,寄り添い方次第で薬以上に効果を得られることもあり,医者の人生観や価値観が治療に大きく影響して面白い。逆に,患者さんとの関わり合いの中で,その人生に触れ,私自身の価値観も大きく変化し,少しは森田療法でいう‘あるがまま’,私流には‘良い意味でのオバサン化’が上手になったかなと思う。そして,どんなに苦しいことがあっても,今生きているということ,周りに支えてくれる人たちがいてくれるということが,本当に幸せなのだということに気付ける幸せを実感している。

 医者になって10年が過ぎ,医学を学べば学ぶほど出来ることはほんのわずかしかなく,出来ないこと,わからないことだらけだという事実に無力さともどかしさを感じるが,自分が患者側になった時,「病院に行けば何とかしてもらえる」という幻想を,今でもどこかで持ってしまう自分もいる。患者さんや家族の期待に応えられないことも多いが,その人の人生で,楽しかった,幸せだったと思える時間が少しでも増えるようにお手伝いできればと思う。医者としての‘自信’は,残念ながらまだ持てていない。おそらくこの先,医者を続けていって80歳になっても,‘自信’は持てそうにないが,豊富な(?)苦しい体験を基にできるだけ患者さんの心に寄り添っていきたい。「治せぬ病はあっても癒せぬ患者はいない。永遠に初心を忘れず善き癒し人でありたい。」  これは,私より3年早く医者になり,現在,感染症治療の分野で奮闘中の兄が,大学の卒業アルバムに寄せた言葉だが,今,この言葉を噛みしめながら日々の診療にあたっている。

今年の目標
 自分自身が幸せでいること!
 そしてそこに周りを巻き込むこと!!

 今年も1年,不器用な生き方の我が子と自分,そして患者さんたちと一喜一憂し,泣き,笑い,支えてくれる人たちに感謝しながら,周りにある小さな幸せを見逃がさず,がむしゃらに頑張ってみようと思う。





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