=== 随筆・その他 ===

五 分 間 坐 禅


南区・谷山支部
(安達診療所)   安達  寛


 坐禅という言葉は,坐って禅を実行するということであります。しからば,禅とは何のことかと申しますと,漢字の禅の字には意味はありません。禅はぼん語,すなわち印度語の「ゼンナー」の音を漢字にあてたので,本来は「禅那」と書くのでありますが,それを略して禅といっているのです。それなら「ゼンナー」とは何のことかといいますと,それは静慮と翻訳されております。静慮とは,しずかにおもんぱかる,またはしずかなるおもんぱかりということで,精神を統一することであります。ひらたくいえば,心を落ち着けることであります。心を落ち着けるには坐るのが一番よいので,坐して精神統一を実行する。それが坐禅であります。
 釈尊が悟道(悟りをひらくという)された時つぶやかれた言葉が,「奇なる哉,奇なる哉,一切衆生皆如来の智慧,徳相を具有せり,しかれども転倒妄想の故に,これを知るあたわず」,これが仏教の起源であります。この精神「一切衆生悉有仏性」禅門では「衆生本来仏なり(成仏)」と信解し,見性悟道せんと正師の指導を受けながら坐禅修行するわけであります。
 大宋国に渡り,50代祖師如浄禅師から正伝の仏法を伝授された51代祖師道元禅師は,正法を弘法しようと,帰朝1227年,27歳の時に「普勧坐禅儀」を漢文で書簡されました。仏法の奥儀が入門書とはいえ,普く網羅されているといわれております。普勧坐禅儀は医学における処方箋に相当するものといってよいかと思います。坐禅は服薬であります。薬効は,見性悟道とあらわれ,日常生活では知的レベルでは転迷開悟,感情のレベルでは離苦得楽,意志のレベルでは止悪作善となるのであります。世間には,高齢者医療,若年者の心身の苦悩の増加など人生の問題が増加しておりますが,戦後経済的には裕福になっておりますから,精神的問題が重ではないかと考えます。心の問題はむつかしい。一人一人の価値観が異なりますので。普勧坐禅儀は,難解な経典ですが,坐禅の実行は簡単であります。姿勢を調える(正身端坐),足の組み方(結跏趺坐,半跏趺坐),呼吸の調え方(数息観,随息観),精神統一の仕方など,指導書のように会得して実行するだけです。
 坐禅を体験していても,本人が見性悟道に達しているかどうかは,達道の人でなければ分りません。坐禅の目的は悟道にあり,悟道の実践実行にあります。3分でも5分でも熱心に坐禅を続けられれば,必ず見性悟道に達します。悟りの境地を禅界では,
 諸行無常,諸法無我,涅槃寂静と解しています。白隠禅師の坐禅和讃と道元禅師の普勧坐禅儀を提示致します。

坐 禅 和 讃
衆生本来佛なり 水と氷のごとくにて
水をはなれて氷なく 衆生の外に佛なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶがごとくなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
六種輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき
夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念佛懺悔修行等
其の品多き諸善行 皆この中に帰するなり
一座の功をなす人も 積みし無量の罪ほろぶ
悪趣いずくに有ぬべき 浄土即ち遠からず
辱なくも此の法を 一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は 福を得ること限りなし
いわんや自ら回向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として 謡うも舞うも法の声
三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん
此の時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当処即ち蓮華国 此の身即ち佛なり


普 勧 坐 禅 儀

原ぬるに夫れ道本円通争か修証を仮らん,宗乗自在何ぞ功夫を費さん。況んや全体かに塵埃を出ず,孰か払拭の手段を信ぜん,大都当処を離れず,豈に修行の脚頭を用うるものならんや。然れども毫釐も差あれば,天地懸に隔り,違順纔かに起れば紛然として心を失す。直饒い会に誇り悟に豊かにして瞥地の智通を獲,道を得,心を明らめて衝天の志気を挙し,入頭の辺量に逍遥すと雖も,幾ど出身の活路を虧闕す。矧んや彼の園の生地たる,端坐六年の蹤跡見つべし,少林の心印を伝うる,面壁九歳の声名尚聞こゆ,古聖既に然り,今人盍ぞ弁ぜざる。所以に須らく言を尋ね語を逐うの解行を休すべし。須らく回光返照の退歩を学すべし,身心自然に脱落して本来の面目現前せん。恁の事を得んと欲せば急に恁の事を務めよ。夫れ参禅は静室宜しく飲食節あり。諸縁を放捨し,万事を休息して善悪を思わず是非を管すること莫れ。心意識の運転を停め,念想観の測量を止めて作仏を図ること莫れ,豈に坐臥に拘わらんや。尋常坐処には厚く坐物を敷き,上に蒲団を用う,或は結跏趺坐,或は半跏趺坐,謂く結跏趺坐は先ず右の足を以つて左のの上に安じ,左の足を右のの上に安ず。半跏趺坐は但だ左の足を以つて右のを圧すなり,寛く衣帯をけて斉整ならしむべし。次に右の手を左の足の上に安じ,左の掌を右の掌の上に安じ,両の大拇指面いて相う,乃ち正身端坐して,左に側ち右に傾き,前に躬り後に仰ぐことを得ざれ,耳と肩と対し鼻と臍と対せしめんことを要す。舌,上のに掛けて唇歯相著け,目は須らく常に開くべし,鼻息微かに通じ身相既に調えて欠気一息し,左右揺振して兀兀として坐定して箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん,非思量,此れ乃ち坐禅の要術なり。所謂坐禅は習禅には非ず,唯だ是れ安楽の法門なり,菩提を究尽するの修証なり,公案現成,羅籠未だ到らず,若し此の意を得ば竜の水を得るが如く虎の山に靠るに似たり,当に知るべし正法自ら現前し,昏散先ず撲落することを,若し坐より立たば徐徐として身を動かし,安詳として起つべし,卒暴なるべからず,嘗て観る超凡越聖,坐脱立亡も此の力に一任することを。況んや復指竿針鎚を拈ずるの転機,払拳棒喝を挙するの証契も,未だ是れ思量分別の能く解する所に非ず,豈に神通修証の能く知る所とせんや。声色の外の威儀たるべし,那ぞ知見の前の軌則に非ざる者ならんや。然れば則ち上智下愚を論ぜず,利人鈍者を簡ぶこと莫れ。専一に功夫せば正に是れ弁道なり。修証自ら染汚せず,趣向更に是れ平常なる者なり。凡そ夫れ自界他方,西天東地,等しく仏印を持し一ら宗風を擅にす,唯打坐を務めて兀地に礙えらる,万別千差と謂うと雖も,祗管に参禅弁道すべし,何ぞ自家の坐牀を却して謾りに他国の塵境に去来せん。若し一歩を錯れば当面に蹉過す。既に人身の機要を得たり,虚く光陰を度ること莫れ,仏道の要機を保任す。誰か浪りに石火を楽まん,加以,形質は草露の如く,運命は電光に似たり。忽として便ち空じ須臾に即ち失す。冀くは其れ参学の高流,久しく模象に習つて真竜を恠しむこと勿れ,直指端的の道に精進し,絶学無為の人を尊貴し,仏仏の菩提に合沓し祖祖の三昧を嫡嗣せよ。久しく恁なることを為さば須く是れ恁なるべし,宝蔵自ら開けて受用如意ならん。



このサイトの文章、画像などを許可なく保存、転載する事を禁止します。
(C)Kagoshima City Medical Association 2010