=== 随筆・その他 ===

夏の虫に悩まされた思い出


中央区・中央支部
(鮫島病院)    鮫島  潤
 今年の夏は特別に暑かった。私は矢張り敗戦前後の頃,この様に暑かったのを思い出す。しかも当時は物凄く大勢の蚊,蚤,虱に散々刺されて局所は腫れあがり,物凄い痒さでろくろく眠れぬ夜を過すものだったという事をシミジミと思い出した。暑さで体力は消耗している戦中・戦後に食料は大いに不足して腹は減るし,唯でさえ乏しい体の血は蚊,蚤に吸い取られるし,軍事訓練は厳しいなどで発育盛りの我々は上にも横にも伸びる暇は無かった。此の頃天文館を通ると若い諸君が派手な服装で伸びやかにアベックが歩いているのを見ると羨ましくて堪らない。我々の戦中戦後の虫刺されの思い出を記して,経験の無い若い諸君に伝えておこうと思う。

写真 1 ヒトスジシマカ

写真 2 血で膨れた腹

写真 3 アノフェレス


 まずお墓参りに行くと何時の間にか刺されている。身体は小さいのに,すばっしこくて,その刺し傷の痒さは特別だった。此れをヒトスジシマカといった(写真 1)。
 *蚊に刺さることも 供養と墓参り    多美

 森や竹薮に近付くとトウゴウヤブカにやられる。デング熱,日本脳炎の伝染源だった。運動で汗をかく人,ビールを飲んだ後が刺されやすい。
 折角寝ているのにブーン,ブーンとそれこそ蚊の鳴くような,そして戦時中に小型練習機の赤トンボが飛んでいるような小五月蝿い音で飛んで来て人を刺すのがアカイエカ,日本脳炎を伝播する。面倒だが蚊帳を吊って隠れねばならぬ(写真 2)。
 *血膨れて 踏ん張っていて イエカかな     正

 蚊帳というのがあった。いかにも清涼感のある麻で1mm程度の網目になり,蚊は通さぬが風通しの良い四角の立方体だった。四隅を金具の輪で長押 なげし の鈎に引っ掛けてあった(戦時中この金具を供出させられたのには困った)。平安時代は貴族の物だったが,江戸時代から庶民のものになっていた。
 *起きて見つ 寝てみつ蚊帳の 広さかな    加賀千代

 子供の頃は庭先の蛍を蚊帳に入れてその点滅を楽しんだものだ。当時中に入れてもらえない人を「蚊帳の外」といって除け者にする意味の言葉もあった。蚊を近付けない為に使っていた金鳥蚊取り線香,フマキラーの仄かな臭いが懐かしい。
 物凄く太い親指ぐらいの獰猛なのがオオクロヤブカだ。例えば夏休みなどで寮生が長く留守して久し振りに帰って来た時,さてと便所にしゃがんだ途端にワッと寄ってきて遠慮会釈なく剥き出しのお尻の周りを刺し捲くる。その痛さときたら堪らない。
 昔は鹿児島の周囲,伊敷,原良,荒田も広い広い田圃だった。私は畦道を通りながら田圃の水の捌け口のあたりにアノフェレス(ハマダラカ)の幼虫,ボウフラが浮いているのを見た。透き通った青色をして奇麗だった。これは成虫になってもハマダラカとして他の蚊が何となく嫌らしいのに比べて,上品で割合大形だった。然し一番怖れられていたマラリアの伝播蚊として戦時中特に注目されていた(写真 3)。
 *我が頬を 撃たせやがってハマダラ蚊    六甲

 ボウフラで面白いのがトラフカ,カクイカ(虎の斑があって,他の蚊のボウフラを喰う蚊)という大型の豪傑もいた。
 戦時中デング熱,フィラリア,マラリア(二日熱,三日熱,熱帯熱),日本脳炎などが軍隊戦力の大きな消耗の原因になっていたので,特に県内の山手から海岸線まで蚊及びボウフラの分布を綿密に調べた事がある。懐かしい思い出だ。戦時中は軍需物資を積んだ貨物船が鹿児島港に頻繁に入港,出航するし,南方戦線からの飛行機の往来が激しく,便乗して有害昆虫の侵入が頻繁でその被害も大きかった。我々はその為の防疫調査をしたのである。
 敗戦後一転して進駐軍により蚊,蚤など有害昆虫の撃滅作戦が始まった。その厳しさは今では考えられない程徹底したものだった。引き揚げ船から次々に酷い栄養失調の若者,老人たちが骸骨みたいにやせ細りフラフラしながら上陸していて,時には上陸した途端にバッタリ倒れる人もいた。男女全員頭から腹背中,陰部,尻,兎に角全身真っ白になるまでDDTの粉末を吹き付けていた。人権など全く無視された。我々は占領国民だから反対するわけにいかない,進駐軍のすることは絶対だった。今の自由が羨ましい。残酷だったが今思えばあの操作で有害昆虫が全滅して今日の穏やかな日を迎えたのである。DDTの副作用が言われたのは大分後の事だった。それでも今になってあの頃の荒療治はつくづく有り難い事だったと思う。然し反面多くの大事なトンボ,蜘蛛などの益虫までも全滅したのは残念だった。一方,世の中が落ち付くに連れて各家庭にアルミサッシが普及し網戸,空調が普及し下水道が完備され蚊を殆ど見なくなった事は昔難儀した我々クラスの人間にとっては感慨無量である。
 然し現在でもアフリカ,東南アジアでは蚊によるマラリア,デングなどが後を絶たない。WHOの依頼により日本からタンザニアに蚊帳の工場を造って数百万の蚊帳を供給しているそうだ。近年は蚊帳に殺虫剤を塗りこんだのもあるというがアレルギー,発ガン性,肝機能障害などの問題も出ていると言う。
 あんなに憎たらしい蚊だったが,時にはなつっこい事もあった。先人の俳句を紹介しよう。

蚊の俳句
 *八階へ 蚊も連れて行く エレベーター    田中
 *駅ごとに 蚊も乗り降りの 終電車    知子
 *蚊を打って そこはかとなく 愉快なり    紅
 *したたかに 血を吸いたる蚊を 殺したり    節子
 *血膨れて 踏ん張っていて イエカかな    正
 *蚊の羽音 B29の 記憶あり    実


写真 4 蚤

写真 5 虱


 蚤の心臓,蚤の夫婦,蚤の市,蚤の涙,蚤の小便,蚤取り眼まなこ,蚤にも食わさぬ,などと小さくても力の強い例えに使われている。蚤のサーカスと言って蚤を飛ばせる,車を牽かせるなどの芸を仕込む事もあった(写真 4)。
 蚤に犬のみ,猫のみ,人のみの違いがある。大事なのはケオピス蚤というのがいて此れがペストを媒介する。感染すると死亡率100%といって軍の方でも非常に怖れていた。その防疫の為,鹿児島の海岸の倉庫群で捕らえた鼠から血なまこになって蚤探しをするものだった。神戸,横浜等ではケオピス指数が測られていた。鹿児島でもケオピスが発見されたがその指数は低かった。しかしヒヤリとした事がある。


 敗戦後特に外地満州,南方からの引揚者に虱が非常に多かった。進駐軍により徹底的に駆除されたのは蚊の項で述べた。進駐軍は特に発疹チフスを猛烈に嫌っていたのでその防除振りは異常な程だった(写真 5)。
 アタマ虱は女性の子供に多かった。子供が頭を痒がってフケが溜まっていると思ったら子供の髪の毛に小さな白い粒がびっしりと詰まっているものだった。十分に髪を梳いて枕を個人専用にしていた。今でも時々幼稚園や学校で見掛けるそうだ。
 毛ジラミは陰毛に丁度秋の鈴虫がススキの葉に並んでくっついているのを見たが,診察の時は奇麗だなあと思ってシミジミと見あげるものだった。これは必ず不正性交,当時パンパンと呼んでいた街娼の間にはびこって次々に伝播していた。正常な夫婦にも移ると双方の治療を必要としてお互い深刻だった。褌やパンツに虱の糞が赤黒い斑点として見掛けた。此れの駆除は徹底した剃毛だった。それに当時は水銀軟膏を塗ったが今ではスミスリン薬を塗っている。そして衣類も褌もパンツも煮沸した。
 床シラミは南京虫と呼ばれ中国から江戸時代に日本に侵入した。腕を刺されると激しい痛みと腫脹で手が曲がらなくなるほどだった。今はいない。
 虱にもユーモラスな句がある。

蚤・シラミ 俳句
 *蚤シラミ 馬の尿する 枕もと    芭蕉
 *よい日やら 蚤が跳ねるぞ 踊るぞや    一茶
 *蚤と蚊に 一夜痩せたる 思いかな    子規
 *力入れて 蚤の卵を 潰しけり    子規

 他に衣虱もいたが着物の縫い目にびっちり並んでいて,爪で丹念に潰せばプチンプチンと音がしていた。ノミ,虱等刺されると痒くて翌朝も強い痒みで苦しんでいた。

疥癬,水虫
 大体国民の栄養状態が悪かったから,水虫にも疥癬にも感染し易く散々悩まされた。南京,虱ほどではないにしろ,その痒さは慢性的だった。とても今では考えられない。
 進駐軍の防除作戦で今ではたまにしかこれらの虫は見られない。今の若い諸君は食料の不自由は無く栄養は十分吸収されるし,虫による安眠妨害や吸血,伝染病などの被害は無いし伸び伸びと育ってうらやましい限りだ。若い諸君に,こんな時代もあった事を伝えておくのも良いかなと思って述べてみた。

〔参考資料〕
 鹿児島地方の蚊に関する研究(1945)
    鹿児島医専学術報
 鼠ノミに就いて(1954)
    鹿児島医専学術報(T)49〜53
    鹿児島医専学術報(U)23〜33
 臨床寄生虫学 大鶴正満 南山堂




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