=== 随筆・その他 ===

占    い


西区・武岡支部 
(西橋内科)    西橋 弘成

  「当たるも八卦 当らぬも八卦」と言われるが,私は此の年になる迄数回手相を見てもらった。
 初めての占いは,私が肺結核を患い家で伏せていた中学生の時だ。家で飼っている2羽の兎の餌の草取りは,小学3年の弟と5歳の妹の仕事だった。夏の或る日,いつもは4時頃迄には帰って来る2人が6時になっても帰って来ない。最初は家族だけで探していたが,それを知った近所の人達も手伝って下さった。然し探しつけぬまま夜が更けた。翌日は,消防団や警察の方々も手伝って下さった。親切な方が,よく当ると言われている占い師の所へ行って下さった。「球磨川の鉄橋を渡って南へ行った。」と言う事で消防団の方2人が,その方面へ行って下さったが無駄だった。
 3日目の昼前,近くにある人吉高校の男子生徒さん2人が駆けて来て,「テニス部の部室に子供が2人倒れている。」と知らせて下さった。弟達はこうして危ないところを助かった。

 私が高校3年生の時だ。学校で速記術の講演会があった。「囗コク厂レキ・囗コク厂レキ一生の損,  でなくては(   は私が適当に書いたもの)。」と演者は言われた。同級生の藤平君は早速本を買って独学を始めた。その甲斐あってか彼は一浪の後,阪大ドイツ語科へ合格し阪大教授になった。其の日,私も高2の妹も小さい炙り出しの紙を貰っていた。金が無いので大学へ行けぬと分っていたが,私は「鹿大医学部へ合格出来るでしょうか。」と言って炙った。妹は「大学へ進学出来るでしょうか。」と祈った。私の紙には「大丈夫」という文字が浮き出た。妹のは「行ける」と浮いた。今になって考えると高校生の念願は,大学進学か就職のことだろうからと,此の様な言葉を全ての紙に書いていたものと思う。
 私は高校を卒業すると,山村の岩野小学校の代用教員として赴任した。24歳の小柄でチャーミングな女先生がいた。教頭先生が最初に言われたことは,「人妻に惚れるな」であった。その女先生は,人吉市内の小学校に勤めている妻子持ちの渋い教員に惚れてしまい,岩野に住んでいるお姉さんが心配して教頭先生に相談したところ,岩野小に引っぱられたとのことだった。私は大学進学のお金を貯める為に就職したのであり,受験勉強も同時並行で進めておかねばならないので,女性に惚れてる暇は無かった。
 表題とずれるが,11年間の教員生活で私が買った少し値の張る物は,背広2着,皮靴1足,皮鞄1個,時計1個(7千円)位である。転勤になって免田小に通勤する様になって,たまたま隣に座った同級生が自分の左腕を差し出して,「オメガの時計ば買ったばい。15万円たい。」と見せた。月給1万5千円の時である。私は,大学に入学しても冬は背広で過ごした。入学金納入の時,「御父兄ですか」と言われた事もある。
 岩野小に勤めている時の或る日の昼休み,若い女性が職員室へ入って来た。「無料で手相を見てさし上げます。」と言うので,若い者6人が見てもらった。彼女は私の手を取り暫く見て,「校長になります。」と言った。大学に行く迄の腰掛で教員をしているのに,「校長になります」と言えば教員は皆喜ぶと思っているのだなと考えて可笑しかった。午後の授業の時間になったので教室へ行った。授業を終えて職員室へ帰ると,女先生が「1人千円と言われたので立て替えて置きました。」と言った。余計なことをしてくれてと思ったが仕方ない。数分で千円稼ぐのだから彼女は私の月給の20倍位は月に稼ぐだろうと悔しかった。
 親友の宮原君が大学生だった或る春休み,「釣りに行ってみよう。」と言うので,市街から4q歩いた球磨川の支流,万江川へ行った。釣りの方はさっぱりで魚に餌をやっただけだった。帰りは大通りを外れて田舎道を歩いた。「姓名判断」と板に書いて玄関口に下げてある家があった。どちらからともなく「面白そうだから覗いて見ようか。」と言って玄関へ入った。50がらみの女性が主だった。「宮原平治」と書いた姓名を見て,「貴男は公務員が合っています。」と言った。私の姓名を見て「貴男はしてはならない事を2回します。」と言われた。宮原君は予言通り大学を出ると人吉市役所に就職し公務員となった。私はその時,もっと具体的に,それをしない為にはどんな方法を取れば良いか迄教えてくれたら良いのにと思った。
 
 医師になって10年目の年末,福岡市に住む姉の家へ遊びに行った。正月2日,甥の運転で太宰府神宮へ参拝に行った。参拝のあと境内の隅を歩いていると,「姓名判断」と書いた旗を掲げた小屋があった。このまま勤務医で過ごすか,開業するかどうかと迷っていた時だったので占ってもらうことにした。50代の男性が座っていた。私は開業できるかどうかを見てもらった。「南の方で開業できます。」と言われた。「北の方なら当てがあるのですが。」と私は言った。
 義母が国分市(現霧島市)に土地を持っていて,「弘成さんが開業するなら土地をあげます。」と以前から言っていたからだ。「友人や知人の世話で,南の方で開業できるのですよ。」と占い師は言った。
 それから1年後の或る日,妻が「友達が武岡に一区画がキャンセルで空いたが買わないねと言ってきたんだけど。」と話した。土地を見に行くと,そこは大通りに面していて,近くに市営住宅もある。「ママ,いいじゃない。買おう。」と私は言った。今まで住んでいた家から南の方角だ。あの占い師は真っ当だった。

 私の人生はまだ続く。「してはならない事を2回する」と言う事は,これから起るのだろうか。私は,そんな事はしないと誓っているが,それは今までにした事なのだろうか。そうであれば思い当る事がある。
 1つは,鹿大受験のことだ。「風邪を引いたから休ませて下さい。」と母に勤務校に電話してもらって大学受験に行った。鹿大受験2回目だった。合格した。新聞で確かめてから学校へ行った。朝礼のあと,校長に「大学へ進学しますので退職させて下さい。」と願い出た。校長は,「無断で県外へ出掛けたので退職金は出せません。それに急に辞められても後がすぐ見付かるとは限らないので困るのです。」と言われた。私は,「入学手続には行かせて下さい。それが済めば,次の先生が来られるまで私が担任をしておきます。」と言って入学手続へ行った。帰って来ると,校長から「4月15日付けで,後任の先生が来る事になりました。」と言われた。私は一週間遅れで大学の授業を受け始めた。
 2つ目は,国立指宿病院に勤めている時だ。内科医3人が交替で月1回硫黄島の診療所に出張していた。秋,私の当番の日,船の出航に間に合うように港へ行った。その日に限って車の置き場が中々見つからない。モタモタしているうちに船は出てしまった。私は困惑してなす術も思いつかず,大学病院の胃カメラ室へ行って同僚と一緒に胃カメラをした。
 3日位経ってから,車を硫黄島の役場の職員に何処かに置くよう頼んで船に乗れば良かったのだと思い,船に乗り損なったのなら診療所と勤務先病院に知らせておくべきだったと反省した。
 「馬鹿の知恵はあとから」と言う。

 最近は,占い師の前に立つと,「90歳まで生きます。」と言われる。寿命を気にする年になっていると見られているのだ。




このサイトの文章、画像などを許可なく保存、転載する事を禁止します。
(C)Kagoshima City Medical Association 2010