=== 随筆・その他 ===

鹿  児  島  八  景


中央区・中央支部
(鮫島病院)    鮫島  潤
 大体「八」と言う数字には魅力がある。末広がりで目出たいとも言うし,漢字文化圏では「八」を好字,聖数として尊重している。お八つ,八咫の鏡,国内八道(東海道・山陽道・西海道・北陸道・・・・),八紘一宇,八節(立春・春分・立夏・夏至・立秋・秋分・立冬・冬至),四方八方等いろいろ使われている。大自然の中で優れた風景を評価として○○八景と言われて来た。
 大体八景の起こりは,中国湖南省の洞庭湖の景勝を宋の時代から絵画の題材として画かれていた。私も若い頃上海,蘇州を回った。そのとき洞庭湖,岳陽楼なども行ったが当時瀟湘八景の事を知らなかったので気付かないまま通り過ぎたのは残念であった。四季,風雨,光と音の変化の美しさを取り上げられ,西湖より渡って来た禅僧により日本に取り入れられ,「近江八景」,「金沢八景」,「江戸八景」として導入されたものである。ほかに国内に数十箇所の○○八景があるそうだ。中国,台湾,韓国にもあると言う。
取り入れられた事象の内容は,
 暮雪…夕方または夜の雪が積もった山の景色
 晩鐘…沈む夕陽と寺院の晩鐘の組み合わせ
 落雁…干潟に降り立つ雁の群れ
 秋月…秋の夜の月が水面に反射する組み合わせ
 帰帆…夕暮れに船が港に帰る風景
 晴嵐…夏の青葉を吹く風
 夜雨…夜中に降る雨の風景
 夕照…夕陽を反射し光る水面の組み合わせ
以上を表明した美しい景色を八景と言った。
図 1 近江八景

図 2 金沢八景

 まず根源として瀟湘八景から述べる。
瀟湘八景 江天暮雪  烟寺晩鐘  平沙落雁
     洞庭秋月  遠浦帰帆  山市晴嵐
     瀟湘夜雨  漁村夕照
 これを真似て日本で最初に命名されたのが近江八景である。
近江八景 比良暮雪  三井晩鐘  堅田落雁
     石山秋月  矢橋帰帆  粟津晴嵐
     唐崎夜雨  勢多夕照
     (図1)(挿絵1)
 対称してみると何となく日本的東洋的の雰囲気が滲んでいるようだ。戦国時代に公家や僧侶などにより瀟湘八景に似せて八景ものとして日本で最初に命名された。葛飾北斎や安藤広重の描いた絵は彼等の代表作である。また子供時代に愛唱した有名な鉄道唱歌にも近江八景全部が読み込まれている。瀟湘八景に似せて琵琶湖の南側出口に集中している。
 次に私が馴染んだ主な八景を記してみよう。
金沢八景
 徳川光圀が明から招いた禅僧心越が,横浜金沢区の能見堂から見た周囲の景色から故郷を偲んで命名したという。横浜にあり昔から景勝の地として有名であった(図2)(挿絵2)。
内川暮雪…六浦,侍従橋に掛かる橋。早くから埋め立てられた。今では街の中心になっている。雑然として昔の面影は全く無い。
称名(しょうみょう)晩鐘…昔は海に臨んでいたが市民の森になって海からは遠く離れている。庭の池が美しい。
平潟落雁…野島公園の西北に当たるが幾分昔が残っているようだ。
瀬戸秋月…市立大学が設立され,学生の街になっている。勿論昔の面影はない。
乙艫(おつとも)帰帆…今の野島公園,昔は帰帆の情緒があったらしい。
洲崎晴嵐… 平潟湾の奥,現在ダイエー等があり,とても晴嵐の環境ではない。
  全体的に雑然として全く昔の情緒は考えられない。
小泉夜雨…平潟湾の東,小泉元首相の本家と言われるが,埋め立てられて昔の面影は全く無い。地名も消えた。
野島夕照…乙艫(おつとも)の近くで今の野島公園
 昭和30年(1955年),私は磯子のプリンスホテルに宿泊した事があったが,当時はホテルの周囲に鈴虫が鳴いていたのを懐かしく思い出す。当時はまだ金沢八景の名残が残っていたのだ。
 時代の変遷と共に,現在は磯子から金沢,追浜まで都市開発の進展と共に著しく状況が変わっていて全く昔を偲ぶよすがも無い。あの付近は戦時中海軍技術工廠があり金沢工業地帯となっていたが,横須賀が近く軍事的にも重要で機密保護の厳しい地区だった。
 初期の金沢文庫は鎌倉中期に北条実時により日本最初の武家の私設図書館として建てられた。伊藤博文らによって称名寺大宝院跡に再建されたが,関東大震災で崩壊した。後に神奈川県の運営する文化施設として復興し,今では神奈川県立金沢文庫として称名寺の広い庭園の一角に残されている。
 金沢文庫の辺りは戦前は岸壁の凹凸が多く松林の誠に奇麗な海岸で昔の鎌倉を偲ばせていた。若い頃私も好きな場所だった。海の公園付近,八景島には少し名残が残っている。然し戦後は進駐軍の広大な住宅地になり多くの軍人家族達が闊歩していて,彼らの連絡用の簡易飛行場が出来ていた。それ以後,経済発展により次々に非常に広い範囲で埋め立てられ,大規模な石油基地や工場が林立して来た。八景島の隣には横浜市立大学医学部,大規模な附属病院が建ち八景島シーパラダイスの公園や水族館が広がっている。洲崎,野島には関東学院大学や横浜市立大学及び附属施設が出来て学園都市と言われるが,変われば変わるものだ。
 金沢八景に並んで有名で若い頃私も関係した江戸八景を述べる。
江戸八景 
図 3 江戸八景


 近江八景になぞらえて命名された(図3)。
忍岡(しのぶがおか)暮雪…湯島聖堂から,広重が好んで描いた不忍池及び東大の辺りは昔から日本の文学,芸術,医学の中心として注目されているがそれらを含めて東都八景とも言っていた。
上野晩鐘…上野寛永寺辺りは四季を通じて趣がある。
隅田川落雁…その隅田川も昭和の初め頃は水も奇麗でボートなどを漕いでいたのに,丁度東京オリンピックから日本経済高度成長期の頃は凄く濁って悪臭がひどかった。現在また奇麗になっているようだ。
愛宕山秋月…愛宕山は曲垣平九郎の乗馬による急な階段ののぼり降りや戦前のNHK放送局を思い出す。
芝浦帰帆…芝浦の海岸辺りは浅草海苔の産地だったし,羽田飛行場はただ広っぱで滑走路の脇に建つ穴守稲荷の赤い鳥居が印象的だった。厳島神社のように海中に突き出た大規模な海軍士官用の料亭があったものだ。羽田国際飛行場が拡張した今日ではとても昔を思い出せない。
日本橋晴嵐…日本橋は日本道路原標として有名だったが,今では幾重にも重なる高速道路に囲まれ見下ろされて昔の情緒はない。
吉原夜雨…吉原も隅田川の向こう側の佃つくだ島じまに並ぶ湿地帯だったと言う。ソープランドのメッカになっているそうだ。
両国橋夕照…隅田川から夕陽に映える大橋は今でも美しいが,昔はさぞや美しかっただろうと思う。
 江戸の変わりようも酷い。本当に思い半ばに過ぎるものがある。
 鹿児島にも鹿児島八景として「三国名勝図会」に書かれている景勝の地がある。
鹿児島八景
図 4 鹿児島八景


 江戸の講談師 伊東凌舎が江戸文化人の眼で薩摩藩領内各地を検分し,瀟湘八景にあわせて作成したのが鹿児島八景である。作者により地名表景は多少異なっている(図4)。
桜島暮雪…桜島に雪が積もることは今では新聞種になるが,私の若い頃は珍しくなかった。開聞暮雪の説もある。
福昌寺晩鐘…福昌寺は島津家の墓地を有する壮大な寺だった。明治2年の廃仏毀釈により取り壊され墓石だけが残されている。周囲を山に囲まれた寺の鐘はよく反響した事だろう。
玉里落雁…島津の殿様の別荘(玉里御殿)のあった周囲は四十五連隊(後の十八部隊)の練兵場があって,我々が大分しごかれたものだ。あそこに雁が舞い降りていたのだろうと想像する。沼地が多く金魚池や柳,ポプラの並木が残っていた。三国名勝図会によると洲崎,または尾畔落雁の説もある。
磯秋月…季節により月の出るのは桜島の右から左に移るが,月の明かりが錦江湾にキラキラと反映するのは今でも美しい。桜島秋月の説もある。
行屋帰帆…行屋とは三国名勝図会と古地図によると桜島航路発着所,築地辺りになるらしい。「行屋橋」の地名があり,鹿児島駅の方に孝行橋,汐見橋があったのを微かに記憶している。あの辺に帰る帆掛け舟の姿は想像するだけで心が和む。
洲崎晴嵐…洲崎も南林寺の辺りは広い墓場と鬱蒼とした松林だったのを思い出す。今ではスッカリ埋め立てられて4車線の広い道路になっている。多賀晴嵐の説もある。
荒田夜雨…昔は伊敷,草牟田,田上,荒田は一面の田圃だった。その頃は蜻蛉,蛙も蛍もいっぱいいたものだ。
唐湊夕照…唐湊も新川に昔から温泉があったが,私の子供の頃はあの温泉から遠く天保山が眺められた。まだ私の心に残っている。三国名勝図会では「新上橋夕照」となっている。
 昔は鹿児島(薩摩)の風景も捨て難いものがあったのだ。思い出して懐かしい。五代夏夫氏の著書「桜島の顔」に「鹿児島八景」と言う項目があったのを読んで,しみじみと鹿児島の景色を見直すことだった。

比良暮雪(下絵) 三井晩鐘 堅田落雁
石山秋月 矢橋帰帆 粟津晴嵐
出典:「近江八景」『フリー百科事典
   ウィキペディア日本語版』
   2009年11月23日10:40(日本
   時間)現在での最新版を取得。
   URL: http://ja.wikipedia.org
唐崎夜雨 勢多夕照
挿絵 1 近江八景


内川暮雪 称名晩鐘 平潟落雁
瀬戸秋月 乙艫帰帆 洲崎晴嵐
出典:「金沢八景」『フリー百科事典
   ウィキペディア日本語版』
   2010年8月9日20:43(日本
   時間)現在での最新版を取得。
   URL: http://ja.wikipedia.org
小泉夜雨 野島夕照
挿絵 2 金沢八景


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