「おう!」
「よお!」
「元気か?」
「ああ,まあな」
「じゃ,またあしたな」
ママに連れられた幼稚園児たち。通り過ぎざまの会話,だそうである。新聞の投書欄に載っていた。
こちらは内之浦だったか,アスパラガス収穫のテレビ中継。この日のために動員されたらしい小学生たちがカメラに向かって感想をひとこと。
「はい,ストレス解消になりますね」。
最近,子どもと大人の判別がはなはだ難しくなっているのは服装や体格にとどまらない。言葉使いでも著しい。しかも,大人だけが使う(とわれわれが思い込んでいた)言葉を見事に使いこなしている。“ストレス”などという,本来難解なはずの抽象概念をさらりと自分のものにしている。
評論家の外山滋比古さんによると,幼児から大人への成長とは要するに,人間の理解できる範囲が「具象」から「抽象」へ広がる過程であるという。
子どもがうんと小さいころは,教える言葉も具体的なもの,つまり目に見え,手で触れられるもの,オッパイとかワンワンとかに限られるが,3歳ぐらいになったら抽象的な言葉を教える必要がある。手始めにはおとぎ話がいい,と外山先生はおっしゃる。ただし,おとぎ話は昼間にやってはあまり効果がない。昼間は「具象」の世界だからである。昼間,じっと聴いているような子どもは病的だ。外に出して散々遊び回らせたほうがよろしい。つまり,おとぎ話は家庭で,それも暗くなってからやることだ。幼稚園でやっても効果は期待できない。幼稚園は昼間しか営業していないからである。
昼間に桃太郎や浦島太郎の話など聴かせたらどうなるか。母親のほうが苦労する。その“非科学性”をとことん突かれて立ち往生してしまう。それが夕食のあとならどうか。この話,少しへんだなぁと思っても,トロトロぼんやり眠くて反論できない。そうこうするうちに,この世ではない世界へまどろみ入り込んでしまう。つまり「抽象」の世界である。
こうした基礎訓練が不十分なまま学校へ上がると,理科や算数でたちまちつまずく。触ったり見たりすることができない世界が存在することが理解できないから,先に進めない。
例えば算数。「太郎君が10本,次郎君が5本持っています。合わせて何本ですか?」といった問題。ふたりは兄弟だろうか,どこに住んでいるの? 名前は・・・などと考え込んでしまう。
とは言っても,お母さんの持ちネタが桃太郎や浦島太郎程度ではたちまち尽きてしまう。うちの長男の嫁さんは,添い寝しながら毎晩子どもに歌をせがまれ,ついに賛美歌まで動員していた。これからは,アラビアンナイトまでは無理として,若い女性の皆さんは今のうちにレパートリーを広げておくことだ。いいかげんな“胎教”のたぐいより,こっちのほうがよっぽど実践的ではないか,というのは私の愚見である。
幼児と一緒のときの話題はなるべく浮世離れしたものがよろしい,と外山さんはアドバイスする。このパンは値段の割にはまずい,近所の犬がうるさい,などは禁物である。
広中平祐といえば世界的に有名な数学者だが,教育評論家としても知られている。著書の中で,小学校に上がる前のころの体験を語っている。夕食のあと,母親にたずねたのだそうだ。
「僕の目はこんなに小さいのに,なぜ山や畑などあんな大きなものが見えるの?」
さすが,後年数々の世界的な業績をあげる人物は違う。しかしもっと偉いのは母親だ。翌朝「ゆうべ,あんたがたずねた問題じゃ。ひと晩考えたが,かあさんは学問がないけようわからん。学校の先生に聞きに行こう」と,実際に平祐少年を連れて学校へ出かけたそうだ。「ばかなことを聞くんじゃない,ヘンな子だねぇ」などと一笑に付すようでは見込みはない。
ところで最近気になるのは,“大人の幼児返り”ともいうべき社会風潮である。「二宮金次郎像」を母校に寄贈しようとして拒否された,という話がある。マキを背負い本を読みながら歩いている,あの少年の石像。昔はどこでもおなじみだった,小学校のいわばシンボルだが,歩きながら本を読むのは目によくない,交通事故のもとだ,などと言って親たちが反対した。どんなに忙しくても工夫次第で時間は生み出せるのだ,というこの石像の真の教え,つまり「抽象」が読み取れない。大人が幼児的世界から脱皮できていない。あるいは逆戻りしている。
バスの中で繰り返されるアナウンスは,たぶんそんな“退化”した大人たちを対象にしている。例えば「携帯電話の使用はほかのお客さまのご迷惑になりますので,電源を切ってください」というのがある。車内で電話を使う行為がなぜいけないのか,あらためて説明しないとわからない大人が増えたということ。そんな世相を反映している。
そのうち「車内でピストルを発射したり刀を振り回すのは,ほかのお客さまの迷惑になるのでやめてください」というアナウンスが登場するだろう。

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