緑陰随筆特集
牧 多美助産師の紹介
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鹿児島大学医学部保健学科
母性・小児看護学講座 教授
吉留 厚子
財団法人慈愛会 今村病院
宇戸 聡美
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牧 多美さんが助産師になったきっかけ
牧 多美さんは戦争前に20歳という若さで開業し,現在まで現役で活躍され,平成20年春の叙勲を受けられました。
牧さんは鹿児島県鹿屋市在住で,66年間で1万人以上赤子の出産に立ち会いました。11人兄弟で,母親が「誰か一人は助産婦か看護婦になって,人の役に,また兄弟のためになってくいやい」といつも言っていましたので,「よし,11人(男兄弟のお嫁さんも含める)とも私が生ませてやる」と思い助産師を目指しました。昭和15年,山下町にある県立鹿児島病院(後の鹿児島大学病院)に入学し開業することを目標に,3年間勉強して看護婦と助産婦の免許を取得しました。
病院での勤務
卒業後,鹿屋の塩川病院に就職しました。「これで,自宅分娩のための勉強ができる」と喜んでいましたが,その病院では鉗子分娩や帝王切開が必要な異常なお産が多く医師の手術の手伝いの日々でした。「もうここにおったんじゃ,やりたいことができないねぇ」と思いつつも,助産師・看護師の免許を持っているのは病院では牧さん一人で,他の看護者はみんな助手や見習いばかりだったため辞めることはできませんでした。しかし,「自宅分娩に携わっている産婆さんのところに勤めたらどれだけ役に立つだろう」と考えていました。
高田助産師との出会い
ある日,鹿屋で最もお産介助例数が多く開業している高田助産師さんが産婦さんを連れて病院に来られたので,牧さんが「産婆さんですか?」と尋ねると高田助産師さんは「そうよ。ちょっと異常がありそうだから,先生に診てもらうためにきたの」と言われました。自分は開業するために助産師になったのに,このまま病院に勤めていては開業するための技術を身につけることができないと思っていましたので,「私は自宅分娩の勉強をしたいのですが,私を住み込みで使ってくださいませんか。教えてください。」と頼みました。その後,高田助産院に住み込みで働くことになり,“自宅分娩のいろは”を学びました。牧さんは料理や洗濯などの家事を教えてもらい,お産の際に分娩介助や診察の手順,逆子の対処まで高田助産師さんの手技を見て学びました。
逆子の時は,高田助産師は「はら,逆子やが,こら。」と言い,外回転術で見事に頭位にしました。住み込み当初は,免許はあるけれど助産の技術がないので直接分娩介助を行うことはなく,ひたすら産婦さんの血圧測定,胎盤・臍帯計測や沐浴をしました。時々,高田助産師さんが「ほら,これが逆子だよ」と言って,妊婦さんのお腹を触らせてもらうこともあり,診察を毎日行っていくうち,頭で理解するだけではなく,手でも胎児の状態を判断できるようになりました。「高田助産師さんのところでな,習ったから私は,今現在があると思っているんですよ」とふり返られました。
1年が過ぎ,満20歳になった年(昭和19年),鹿児島県肝属郡吾平町(現:鹿屋市吾平町)で開業しました。
開業して
お産の準備としては,予定日が近くなると妊婦さんにボロ切れ,新聞紙,脱脂綿を産室として使用する納戸に準備しておくように指導していました。ボロ切れはクレゾール消毒して日光消毒しておくこと,新聞紙も何かしら役に立つから集めておくこと,脱脂綿は出血に備えて配給でもらった分では足りないため薬局などで買っておくことを説明しました。T字帯はおむつから作って準備しました。お産が始まると,近所の人たちが卵や新聞紙やボロ切れなどを持ってきて,お湯を沸かして協力しました。産婦さんをビニールで覆った布団に寝かせ,心音を聴き,内診をして進行状態の判断をしました。手袋がなかったため「私の手のバイ菌を移しちゃいけないでしょ。だから手がすり切れるくらい,消毒をしていたんですよ。私の体にはクレゾール(消毒液)のにおいがしみついていました」と話しました。牧さんの記憶では,当時のお産はスムーズで,遷延分娩のように分娩が進まないということはなかったそうです。会陰はよく伸びていたのは「昔の主婦は休むことなしにちょこちょこ走り回っていました。家事をして,農作業をして,帰って食事をし,また畑に行って草を取ったりしました。かがんだ姿勢で,骨盤は大きくなるし,会陰はいつも柔らかいのでしょう」と話しました。会陰は縮めるように保護することで裂傷することはほとんどなく,裂けたとしても5o程度だったためクリップで固定し治癒させていました。
産後1週間は毎日通い,沐浴やお母さんと赤ちゃんの観察を行っていました。現在は産後の母乳育児援助活動を主体としていますが,当時は母乳に関する指導はほとんど行っていませんでした。昔は赤ちゃんへの栄養は母乳しかなかったので,赤ちゃんが泣いては母乳をあげることを繰り返しており,母乳もしっかり出ており,それが当たり前でした。
印象に強く残っているお産
ある台風の日,妊娠中に一度も診察をしたことがない産婦から依頼があり,雨合羽をかぶり自転車で,吾平の山の麓まで出かけました。内診を行ったところ,子宮口が全開大しており赤ちゃんの足が触れたので,「もう度胸を据えたわけ。あの高田産婆さんから習った方法をとってみようっち思ってですね」。トラウベで心音を確認すると赤ちゃんは元気で,破水はしていたが羊水混濁もありませんでした。分娩介助に際して足を完全に出し,両足をそろえ自分の前腕に児の体を乗せ,自分の指を児の口の中に引っかけて8の字に回しながら無事に娩出しました。その赤ちゃんはすぐに元気な産声を上げてくれ,「あぁ,助かった。」と牧さんも産婦さんもとても喜びました。近所の人々が「逆子の子が生まれた」と言って産後の処置の手伝いをしてくれました。
終戦の日,朝早くおじいさんが自転車で「始まった,もう,始まった!陣痛が始まった。」と言って呼びに来たので,すぐに自転車で出発しました。案内された防空壕の中には1人の産婦さんがいました。「ここで生むの?」と当時21歳の牧さんは驚きましたが,空襲が激しく外にはとても出られないため,ご家族の方が戸板で周囲の人々に見えないよう産婦さんを囲み用意していてくれたスペースを産室とし,ランプの灯りの下で無事に赤ちゃんが生まれました。玉音放送の4時間前,午前8時のことであり,「必死で生ませていたから,お産のことは今でも何も記憶がない」と笑いながら語られました。
時代の波
昭和30年頃から自宅分娩から施設分娩への移行という変化が生じ,自宅分娩は徐々に減少したので,再度病院で数年働いた後,夫の仕事の関係で大根占(現:錦江町)の病院で勤務し,その3年後の昭和47年に再度産院を開き訪問指導を中心に活動を始めました。昭和の終わり頃より,訪問する先々で「母乳の出が悪い」と訴える母親が多いことに気づき,助産師として分娩だけに焦点を当てるべきではなく,特に母乳育児に対するフォローが大切であることを強く感じ始め,鹿児島市に桶谷式乳房マッサージの勉強をするために通い始めました。助産師による乳房マッサージの仕方,褥婦さんへの自分で行うマッサージや食事や生活などの指導の仕方などを学び,現在は母乳育児指導を中心とした訪問指導を続けています。名刺には「母乳育児相談所」と書かれており,87歳の今もマニュアル車を運転し,現役助産師として活動を続けていらっしゃいます。
技術の伝承と助産師の役割
分娩の手技を学ぶ方法として,戦前は開業助産師のところで住み込みで勤務し,先輩助産師の分娩介助や妊婦の診察の手技を先ず見て学ぶことは特殊なことではなかったと思われます。安全・安楽な看護技術にしていくためには,経験の場を共有した指導者による導きが必要となります(村島さい子 2008)。当時の徒弟制度のような教育は当然マンツーマン指導であり,出産数も多いので様々な経験を積むことができ,助産技術の伝承もされていたと推測できます。分娩に際して,会陰裂傷もほとんど見られなかったのは,昔の女性はよく働き,動いていたので,骨盤は広がり会陰もやわらかくなったお陰であると思われます。母乳育児については,出産後に児が啼泣すれば母親は乳首を赤子の口にくわえさせることを繰り返すことにより乳管が開口し,プロラクチン,オキシトシンの良好な分泌が図られた結果,母乳を十分児に与えることができます。この母乳を与える何気ない風景が現在見直されているが,まだまだ母乳栄養を確立している割合は戦前の水準には遠く及びません。
戦争直後のベビーブームが去ると,自宅分娩から施設分娩への移行が進み,開業助産師の業務内容にも変化が生じてきました。分娩を主体とした仕事から受胎調節指導が求められるようになり,現在は育児指導を行なっている開業助産師が多く,母乳育児への推進にかなり貢献していると思われます。時代の変化とともに助産師に期待されるものが,母乳育児支援の他,子育て支援,性教育があり,母親の育児不安の減少,子どもの虐待防止の観点から評価されています(岡本喜代子 2008)。助産師がさらに一般に認知されるためには,時代の変化と共に,何が求められているのかを把握し柔軟に対応することが望まれます。
お忙しい中の聞き取り調査に,快くご協力頂きました牧 多美助産師に心より感謝いたします。いつまでもお元気にお過ごしいただきたいと願っております。
引用文献
村島さい子,屋宜譜美子(2008)「新人看護職員と新人教育担当者に教育的支援をする研修会」の成果 学び合う経験の場としての研修プログラムの枠組みと背景 コーディネーターの立場から,看護管理18(5) 354-359,医学書院
岡本喜代子(2008)【特集 産科医不足と助産師教育の充実】開業助産師は,今,保健の科学50(10) 678-684,杏林書院

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