緑陰随筆特集
ガブリエル・フォーレと250キロ
―山口萩往還マラニック無念!180キロで棄権―
|
|
西区・武岡支部
(もりやま耳鼻咽喉科) 森山 一郎
|
|
不幸な貧しい病身な孤独な一人の人間,まるで悩みそのもののような人間,世の中から歓喜を拒まれたその人間がみずから歓喜を造り出す−それを世界に贈りものとするために。彼は自分の不幸を用いて歓喜を鍛え出す。「Durch Leiden Freude.(悩みをつき抜けて歓喜に到れ!)」
【ベートーヴェンの生涯(ロマン・ローラン著)から】
『Je ne suis pas heureuse ici…(わたくし,ここに来てから仕合せとは申せません)』
突然,英語の教師(実はフランス文学専攻)からドビュッシーのオペラ「ペレアスとメリザンド」のこのセリフを知っているか,質問された。今から約35年前のことだ。当時はクラシックといえば,ベートーヴェンやモーツァルトそれにブラームスを少々かじった程度である(それでも,ブライチ【ブラームス交響曲1番】とブラヨン【同4番】のどちらが好きかなど,盛んにディベートしていたものであるが)。当然ながら,メーテルリンク作「ペレアスとメリザンド」の中のメリザンドとゴローのこの会話は知らなかった。そのあと,学生時代はもっぱらジャズを聴き,クラシックは時たま入る名曲喫茶やFM放送から流れるものを耳にする程度であった。今思えば懐かしき時代である。
鹿児島大学医学部耳鼻咽喉科に入局後は,音楽鑑賞の時間がほとんどとれず,また手持ちのレコードもCDに押され聴く機会を逸してきた。やっと,再び本格的に音楽を聴く機会が得られたのは,13年前に開業してからである。そして同時に,開業のストレス発散のためのジョギングも本格的に始めるようになった。そんなある日,「ペレアスとメリザンド」のことを思い出した。ドビュッシーのオペラを聴くのは少し重いので,同名のフォーレの管弦楽の傑作「ペレアスとメリザンド」をより多く聴くことになる。
『前奏曲』は内気で無邪気なメリザンドの主題Aが現われ,徐々に息の長いクレッシェンドで活気づいてゆく。次いで三連音符の連打に乗ってフルートで高音域に提示される執拗に主音に触れる音価の長い単純な旋律の第2主題Bが,恋人たちの悲劇的な運命を予告する。そしてゴローを表すホルンの響きが聞こえてくる。2曲目の『糸を紡ぐ女』では,弦楽部の特徴ある動機からなる伴奏に乗って,オーボエが長大な旋律を発展させる。そして最終章の『メリザンドの死』はモーツァルトの教会音楽を思わせる響きと共に木管楽器が葬送行進曲を奏で,続いて上行形のアルペッジョの非常に単純な動機からなる第2主題が一部分割された弦楽部により静かに歌われる。【ガブリエル・フォーレ1845-1924(ジャン・ミシェル・ネクトゥー著)を参考】3曲目の『シシリエンヌ』はこの物語の最も大事な局面に流れる間奏曲である。メリザンドがペレアスと愛を語り合っていたときに,ゴローからもらった結婚指輪を噴水の中に落とす場面である。フルートとハープによる情景描写がとても美しい。その旋律はあまりにも有名なので,単独の曲として聴かれた方も多いと思う。
フォーレの作品は,どれも美しく聴いていていつも耳に心地よい。先のネクトゥーも述べているように,おぼろげな,ものを通して柔らかに差し込む光のようなものだ。軽佻浮薄(誰も言ってはいないが)と言われても彼の作品は大好きだ。実は最近,フォーレの音楽を聴きながら行う夜間ジョギングの前約30分のストレッチが,心穏やかで満ち足りた気分にさせてくれるのを発見した。「レクイエム」にしても「ピアノ5重奏曲」「舟歌」「ヴァイオリンソナタ」などなど,どれを聴いてもリラックスできるのである。何色にも染まらず何派にも属さず,ひたすら自分の音楽に固持したフォーレであるが,晩年は耳がほとんど聞こえず,実は聾同然だったのである。ベートーヴェンにも負けない苦境を乗り越え傑作を作曲した。そんな崇高な魂に後押しされたのか,すこぶる好調裏に5月2日に開催される山口萩往還マラニックの250キロの準備・調整が終わった。
昨年同大会の140キロ部門を約20時間で無事完踏し,今年は250キロ制限時間48時間への参加を決めた。フォーレを聴きながらの調整が順調で,ほぼ完璧な体調でスタート地点に立てた。さあ機は熟した。午後6時山口市瑠璃寺をスタートしてまず椹野川(ふしのがわ)沿いをしばらく走る。河川敷より「ケーン」という力強い雉の声が励ましてくれる。まるで鬼ヶ島へ鬼退治に行く桃太郎みたいだ。そして,右に折れ山道を登り豊田湖畔公園を目指す。久しぶりに梟の「ホーオ」という鳴き声を聞いた。夜11時ごろ遅い臥し待ちの月が出てきた。夜道をヘッドライトで照らしながら走り始めた時は,不案内な山道を一人行く心細さ寂しさ,不安感と絶望感が襲って来て,これ以上は耐えられないいわば死の恐怖感に近い感覚に駆られた。そんな時には,フォーレの旋律を思い出し彼の言葉を繰り返し唱えていた。
「私には,死はそのように感じられるのであり,それは苦しみと言うよりもむしろ永遠の至福と喜びに満ちた開放感にほかならない」
「遂に得られた魂の安らぎなのである」
フォーレのお蔭か,梟の後押しか,それとも自分の脚力を恃める自信が出てきたせいか,ある瞬間ふっと肩の力が抜け,いつしか一人ぼっちの闇夜にも慣れ安心感が漂ってきた。まさに,「地に因って倒るるものは地に因って立つ」の白隠禅師の内観法を実践しているようだ。頭の中の不安つまり気逆を健脚が冷やしてくれた訳だ。などと勝手に小悟しつつ,次なるチェックポイントの俵島を目指した。
ところが,急に安堵したせいか思わぬ敵が現れた。走り始めて6時間後夜の12時をまわった頃から極度の睡魔に襲われたのである。羊腸たる隘路を半分眠りながら,左右によろよろし,果(はか)もゆかず登っている時,事件が起きた。眠気のあまり一瞬記憶が飛んだ,その時,右足が側溝に嵌り左手を突いて転倒してしまったのである。残念,これで終わりかと観念したが,幸い右足の捻挫や外傷もたいしたことなく,左手も掌に軽く傷を負うただけで済んだ。でも先は長い,様子を見るため適当な路傍の石にしばらく腰かけていたら,図らずも15分ほど眠ってしまった。この仮眠が好かったのか,眠気はすっかりとれ,足も痛くなく再び走り出すことが出来た。森の精に感謝である。
 |
写真@千畳敷の山頂に到着。走り始めて18時間。
250キロのちょうど折り返しの125キロ地点。
|
朝6時(87キロ地点)に朝食をとり油谷中学校で着替えをして,さあこれから仕切り直しだ。朝食は中華丼だったが中華味のするおかゆのようなもので,そんなにお腹にもたれない。足も快適,眠気もない。夜一夜(よっぴて)走ってきたが,今日もひねもす日本海を臨む海岸線を走り続けよう。油谷島を一周して,川尻岬,立石観音を経て長い坂道を登り千畳敷に正午に着く。ここは125キロ地点でちょうど250キロの半分だ。足はまだ大丈夫,快調快調(写真@)。だが,千畳敷の下り坂はかなり急でここを走り降りるのはかなり足首に負担がかかる。出来るだけ膝をやわらかく使って慎重に下る。国道191号線に出て,さらに仙崎公園から鯨墓(くじらばか)を目指す。このとき,この191号線沿いの歩道でクリーム色に近い“白い蛇”に遭遇した。このまま日本海沿いに島根県まで行けば神話の国八雲立つ出雲に着く。この90p程度の小さい白蛇も出雲大社の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の遠い子孫であろうか。小生を励ますためにわざわざ目の前に現れてくれたのであろうか。これは吉兆。きっと山口市の瑠璃寺まで完踏できるぞ,好事だと喜んだ。浮き浮きした気分で,鯨墓のチェックポイントを過ぎ,次なる宗頭文化センターに向かった。もうすぐ大会二日目の日が暮れるため,宗頭文化センターで仮眠をとるかそれとも一気に萩を目指すか考えながら,ゆっくりと走っている時だった。右足の外側のくるぶしから底部にかけて,激しい痛みを感じた。疲労による腱鞘炎かあるいは骨にヒビが入ったか,回復不可能なイヤな予感のする痛みだ。昨夜眠気のあまりに転倒した時の右足打撲が遠因か,そしてあの千畳敷の急勾配の下りでさらに悪化したのか。とにかく,なお数キロ歩くも痛みは消えず,このまま強行すれば今後の競技人生に多大な影響が出るのは必至。大好きなサッカーも出来なくなってしまう。でも,明日の制限時刻までにまだ23時間もある。残り80キロをゆっくり歩いても完踏することはできるかも知れない。宗頭文化センターに到着する直前まで,続行するか棄権するか迷っていた。最もつらい選択をしなければならない時が迫ってきた。宗頭文化センターに待機する係員に告げた,「ゼッケン109番森山,棄権します」と。自分のマラソン人生の中で生まれて初めての棄権である。吉兆だ!好事だ!と特別な意識をもってしまったが,自分の座右の銘,すなわち,『好事不如無(碧巌録)・無事是貴人(臨済録)』をすっかり失念していた。
「好事無きに如かず」と平生唱えているのに,こういう時に限ってつい有頂天になってしまう。人間の弱さ移ろい易さをあらためて認知する。趙州録(じょうしゅうろく)巻下513にも「師従殿上過,見一僧礼拝。師打一棒。伝,礼拝也是好事。師伝,好事不如無。(師は仏殿を通って,一人の僧が礼拝するのを見た。師は棒で一つ打った。僧,「礼拝はやっぱりよいことです。」師,「よいことはないほうがよい。」悪事はもちろんいけないが,好事もまたいけない)【秋月龍a訳】とあり,単なる「好事魔多し」と同じ意味ではない。好事にも悪事にも左右されない絶対の「無」に徹することを説いているのだが,ここでは詳細は割愛する。ただ今回棄権した萩往還で感じたことは,なにゆえ苦しみの中に自らを置く人がこんなにも多いのかという問いである。
『質量保存の法則』というものがある。では,地球の誕生時のエネルギーが現在まで保存されているなら,原始地球の高温のガスの嵐やマグマの海といった想像を絶するエネルギーと現在の穏やかな地球のエネルギーは一緒のはずだ。つまり,40数億年前の核融合のエネルギーは,今の地球の静かな鉱物と現世の生きとし生けるもののエネルギーの総和とほぼ同じである。さらに勝手に演繹すれば,人間や霊長類そのほかの動植物の魂というエネルギーの総和ももしかしたら一定なのではないだろうか。例えば,あらゆる感情をプラスとマイナスに分けるとする。慈愛,尊敬,勇気,希望,安心などいわゆるポジティブ思考と,絶望,不安,猜疑,嫉妬などのネガティブ思考を足すと,きっとある恒常的な一定のエネルギーになるに違いない。勇猛精進し深山に入って仏道を思惟し,欲を離れ常に空閑に処し,深く禅定を修し,五神通を得た菩薩あるいは修行僧はあらゆる苦を経験しているから,我々凡人の「生・老・病・死・憂・悲・苦・悩・哀」を救って安らぎを与えることができる【法華経(植木雅俊訳)から一部引用】。だから,衆人は何も悩む必要はなく,苦しみは修験者が身代わりとなって克服して呉れるのだ。つまり,悟りを開いた人が苦しめば苦しむほど,凡人の苦しみは少なくなり,プラスの感情だけがいや増すという訳だ。また,不善根(貪欲・瞋恚・愚痴)を超越した出家者は,いつも『無事』の心境にあり『好事』だと喜ばないことによって,他者の歓びを増すことが出来るのかも知れない。
 |
写真Aあまり出しゃばらず木のやすらぎを感じる
デンマークDavone社のスピーカーでフォーレ
を飽くことなく聴く。
|
今回のレースで250キロを走り終わってからすぐに更に70キロを走り始めた超人も何人かいた。きっとそのような端倪(たんげい)すべからざる人たちの魂は,自分を不幸と感じている人たちにいつかきっと希望と勇気を与えるのだろう。ベートーヴェンやフォーレは作曲という形で苦しみを克服した。だから,かれらの音楽を聴けば,きっと『悩みをつき抜けて歓喜に到る』ことが出来るのだ。日本海を見ながら尽きない思いを巡らせて走った。見れども飽きない風光明媚な日本海である。聴けども飽きないフォーレである。(写真A)
「夏浅し 走れども飽きぬ 日本海 聴けども飽きぬ フォーレの舟歌」(一郎)

|
このサイトの文章、画像などを許可なく保存、転載する事を禁止します。
(C)Kagoshima City Medical Association 2010 |