桜島は昔から御神火(御岳)として崇められていて,奈良時代に大穴持命(大国主命の若い頃の名前)を祭られたと言う記録があるそうだ。私が若い頃,登山した時,山頂で突然雪のなかから兎が転がり出て脱兎の如くスロープを駆け降りて行った経験から大国主命と白兎の因縁を思い出す事だった。
昭和初期の頃は県内各地の中学校,青年団などの桜島登山駅伝走があった。また当時市内の小学5年生の殆ど全員が桜島登山に参加していた。その頃男子は軍隊に行かねばならない,体を鍛えて置かないと,落伍すると言うので学校も父兄自体も凄く熱心だった。私も登山禁制になる昭和32年までに南岳頂上に10回は登っている。桜島はそれほど憧憬の的,魅力有る山で其処に登山するのは皆の念願だった。桜島登山好きな昔の人の話を列記してみよう。
高山彦九郎は鹿児島に来た時,桜島の登山を熱望したが,案内人が噴火を恐れて登ろうとしないので残念ながら遂に断念している。
文豪徳富蘆花は登山して北岳から眺めた高千穂の連山に大いに感激したと言う。
戦後鹿児島の写真家平岡正三郎氏は焦土の鹿児島の写真で有名であるが,彼も南岳火口観察の経験があり,北岳の火口を覗いて怖かった事を記しておられる。
幕末の日本通外交官アーネスト・サトウも日本アルプスを世界に公表した名登山家ウォルター・ウェストンも2回登っている(五代夏夫氏の「桜島の顔」から引用させて貰った)。
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写真 1 平岡正三郎氏撮影
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写真 2 手前北岳,奥中岳・南岳
五代夏夫著「桜島の顔」より
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写真 3 南岳火口・湯之平展望台掲示板より
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写真 4 NASAチャレンジャー号からの写真
五代夏夫著「桜島の顔」より
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写真 5 市街地から見た中岳の斜面
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私も桜島登山に取り憑かれた一人である。私が始めて登山したのは小学校5年の時だった。私の登山口は武が決まりだった。ポンポン蒸気で袴腰を経由し,武に上陸するとそのまま山に入る。初めは桜島大根畑,桜島小蜜柑畑を縫って進む。私の印象で強く残っているのは途中の森の「うんべ(アケビ)」だった,赤く熟れて破けたのや烏がほじったのもある。山芋の蔓にムカゴ,黄色い葉っぱなども美しかった。山は次第に急峻になって来る。八合目ぐらいから潅木になり頂上近くのシラスの坂になるとヤシャブシが山の強い風の吹き卸しの為に横に這うように伸びている。高い山に特有の光景だ。この辺から上は完全なシラスで深い砂利をそれこそ3歩上がって2歩下がるの繰り返しだ。頂上は目の前に見えているのになかなか辿り着けない。何回行っても此処が一番の難所だった(写真1)。やっと北岳の尾根に辿り着いた時の嬉しさ,此れまでの疲れも汗も一遍に吹き飛んでしまう。吹き付ける風も気持ちよい。霧島の連山を見て満足した徳富蘆花の心境が判る。
ところが此処が終点ではない。北岳の旧火口底は200×200mで深さ100m。一気に火口底に降る。野球場みたいな広く平坦な窪地に先人達の落書きが多かった。今もあるだろうか。七高と大きな石を並べて書いた文字もあった。再び中岳の方に100mぐらい登る。少し尾根伝いに歩くと南岳の尾根につく(写真2)。断崖の縁に佇む,シューシューと不気味な音がして白煙濛々と吹き上がり硫黄の匂いが厳しい。先が見えない,危ないし怖いので火口壁に吸い付くように這って巨大な火口の深淵を覗く。煙の隙間から地底の割れ目の蒸気が噴出しているのが見える。地球の底からの神秘的なエネルギーだ。その広大さに怖れをなし何時までも見ているわけには行かない。中岳の方に引き返す(写真3)。
中岳からは目下に錦江湾,磯,天保山越しに鹿児島の街が見え薩摩半島越しに東シナ海,美しい開聞岳が見渡せる。将に天下の絶景だ。桜島は回りに山が無いので周囲360度のパノラマが眺められて実に雄大だ。後年南方に旅した時,遥か上空1万mぐらいの飛行機から桜島を見下ろしたが火口はまるで岩にへばりつくフジツボみたいだった。その孔から一筋の噴煙が見下ろされた(写真4)。
戦時中連合艦隊が入港して来ることも多かったが戦艦,巡洋艦,駆逐艦,潜水艦それに巨大な航空母艦が総勢200隻ぐらい並んで壮観限りない,豪華とも見えた。所謂無敵日本海軍だった。戦局が急になって訓練が激しくなると,戦闘機が編隊を組んで霧島方面から海上すれすれに飛んで来て空母の直前で急上昇して反転し,われわれの立っている中岳の方に向かって山肌にぶつける勢いで物凄い爆音を轟かせて頭上を大隅方向に通り抜ける訓練を無限に繰り返していたが,その爆音と搭乗員の気迫に圧倒されたものだ。その成果が真珠湾の勝利に繋がった事を後で知った。あの訓練後不幸にして戦死された多くの勇士に哀悼の意を捧げるものである。
中岳から麓までの雄大な斜線を思うと,今でも当時の七高生が中岳から麓まで缶詰の空き缶を転がして,その後を追って真っ直ぐ降りると言う冒険をして,途中で行き詰まってしまったことがある。幸いに軍艦の見張りが望遠鏡で見ていたので救助隊が出て助けたと言うエピソードを思い出す(写真5)。愚かな行為と蔑まれたが,あの頂上から麓までの斜面を見下ろせば大抵真っ直ぐ降りてみたいとの誘惑に駈られるだろう。私でさえも今でもそう思う。
登山禁止の経緯。昭和32年6月,私が外科に入局していたとき,桜島で大噴火があった。怪我人が出たから頼むとの電話が入った。それ以後,待てど暮らせどウンともスンとも言ってこない。全く桜島との連絡が取れないのだ。今の衛星通信,携帯電話,救急車の時代には考えられない事だった。我々医局員はジリジリして待っていた,結局夕方になってから突然10数名の怪我人がどやどやと運ばれて来た。医局中大奮闘で治療に当たった。然し治療より梃子摺ったのがマスコミの五月蝿い事だった。患者が東京からの学生だった関係もありマスコミのインタビュー,カメラのシャッターのしつこいのには,呆れたり腹が立ったりと言うよい経験をした。今のマスコミのカメラの五月蝿い事に比べれば未だましだったかな。それ以後,桜島は登山禁止となり今日に到っている。私が愛して止まない登山コースはその後も続く大小の噴火でだいぶ荒れただろう。
書き出せば限りは無い。桜島の噴火が早く納まり,再び登山が出来て万人があの雄大な景色を満喫する世が来る事を望んでいる。
参考資料
桜島の顔 五代夏夫

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