私達の小学校時代は、鉛筆はナイフで研いだものである。2年生位までは自分で削れないので母に研いでもらっていた。3年生になると上手には削れなかったが、何とか字が書ける程度には削れた。使うナイフは、殆どの級友が「肥後守」と書いてある折りたたみ式のもので、2つに曲げると約7p位の長さになり、筆箱の中に入れて学校にも持って行った。戦後、私が小学校代用教員をする頃は、ハンドル付きの手廻し機械が出て来て、教室に1ケ購入しておいた。休み時間、子供たちは人の手を借りずに鉛筆を研ぐことが出来た。ナイフは筆箱以外の場所に入れておくことは禁じられていた。
私は福岡県の荒木村で小学1年生に入学したのだが、秋の遠足で初めての場所へ行った。その時は父兄同伴でよかった。3歳の妹は、母に背負われて行ったのであろう。
目的の林についた。コッペパンの形をした台地があった。高さ10m位だったろうか。20組位の家族がその台地へ上がった。私達も上がった。20段の石段が付いていた。中央に楠と思う大きな木が立っていて、その後ろに地蔵さんを祭った石倉があった。その木の下で私達は食事を摂った。最後に、母がナイフで梨をむいてくれた。集合の笛がなり、皆は台地の下に集まり隊列を組んで帰途についた。
家に帰りついて持ち物をしらべてみると、ナイフを忘れて来た事に気付いた。翌日は日曜日だった。父が「弘成、ナイフを拾いに行くぞ。」と言った。私は初めての道で自信がなかったが父の自転車に乗せてもらって家を出た。「次は右へ曲る。次は左へ曲る。」と父に言いながら進んだ。昨日歩いた道を思い出し思い出しながらの進行であった。石段のついた台地へ着いた時は、ホッとした。ナイフは大きな木の下にあるはずと確信していた。
台地の下へ何とか着いた。父が「上がって取って来い。」と言った。私は地蔵さんが怖かったが仕方なく一人で台地へ上がって真っ直ぐ大木の下へいった。ナイフは草にかくれるようにしてあった。私は安心してそれを取るとすぐ階段をおりて、父へナイフをわたした。
帰りは口笛でも吹きたい気持になって父の自転車にゆられていた。帰りついて母へナイフがあった事を告げた。母も喜んだ。父は母へ「弘成は初めての道をよく覚えていた。」と言ったそうだ。その言葉を私に直接言ってくれたら、私の学力はもっと伸びていたのではないかと思った。
このナイフは私が小学校を出るまで鉛筆削りとして働いてくれた。中学生となるとお祝いに万年筆をいただいたのでナイフの用は減った。中学に入って1年生は柔道(受身)剣道(素振り)だった。剣道は木刀を持ってくる様言われた。戦争に入っていて市販のものはなかった。先輩と山の木を切りに行ってナイフで削って作った。少し木を乾かして削ればもっといいものが出来たとあとで思った。

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