私が初めてビールを口にしたのは丁度20歳の時である。だから法律違反は犯していない。私は旧制中学5年生の時肺結核にかかり2年間休学して新制高校2年生に復学したので、高校授業が小学校の級友より2年遅れて昭和26年3月に卒業した。20歳2ヶ月の歳であった。その頃も就職難で、学校の推薦で8ヶ所位就職試験を受けたが、すべてだめだった。遊んでいる家計の状態ではなく、卒業日の翌日から父と同じ魚の行商を始めた。初めは自転車もなくかごに干物やマッチ、ローソクなど入れて歩いて田舎を廻っていた。5月になって中古車を手に入れ自転車で廻るようになってから、膝の痛みも取れた。
4月2日最後の試験である代用教員試験を受けた。私は教員は最もしたくない仕事であったが、土方が出来る体力はないので仕方なく受けておいた。後年、この教員試験を受けておいた事が役立ったのである。当時は「でも」「しか」先生と呼んで、先生しかなれなかった、先生にでもなろうか、と見下されたものである。
5月10日、250人の受験者から50人程が面接に呼ばれた。数人の同期生は、その場で赴任先を言われたが、私には何も言われなかった。私はその夜、高校の就職係の先生の処へ行って面接の模様を話し、「何とかして下さい。」とお願いした。先生は「努力してみる。」と言って下さった。私は先生から吉報が届くのを首を長くして行商を続けた。
7月初め、高校3年生の妹を通じて夜、先生の家へ来るようにと伝言があった。夜、先生の家へ行くと「西橋、水上村の岩野小学校が空いたばい。君は中学校を望んでいたが小学校でもよかろう。」とおっしゃった。私は嬉しかった。行商から逃れられるのなら小学校でもよいと思った。
先生は「7月に入ったのだからなる丈早く行きなさいよ。」とおっしゃった。私は早速、翌日岩野小学校へ向かった。教頭先生とお会いした。「いつこれますか。早い方がいいですが。」とおっしゃった。「準備がありますのであさって参ります。」と申し上げた。私は家へ帰り着くと母にその事を告げた。母は「じゃあすぐ布団の用意をしなくちゃ。」と言って古い布団を押入れから引き出して修理を始めた。
2日後、布団袋1ケと、柳こうり1ケとを母と2人でもってローカル線の湯前線で、東人吉駅から湯前駅まで行って、バスに乗りかえて岩野小学校へ行った。母は教頭先生に「よろしくお願いします。」と挨拶した。宿は、高校の先輩と同室の助役さんの家の二階と決めてあった。私は翌日から早速2年生の担任として働き始めた。通信簿をつけねばならぬのでテストもしなければならなかった。
8月から高校3年生の妹が、DVのため私のところへ逃げて来たので下宿を出て、或る農家の一間を借りて、自炊生活を2人でした。妹を九大の高看に送り込んでからは、教頭さんの家へ住み込んで中学生の息子さんの家庭教師を夜した。
ビールを初めて口にしたのは昭和26年の忘年会を学校の教室でした時だ。苦くて飲めたものではなく女先生のジュースをもらって飲んだ。今でもビールはコップ一杯で充分だ。それも50歳頃からである。
小学校へ上がる頃は久留米市の隣りの荒木村の製糖工場の社宅に住んでいた。5月の或る土曜日の夕方だったろう。私は父に連れられて久留米市へ行った。駅からほど近い店へ父は私を連れて入った。広い店で丸いテーブルがいくつかあった。父はその一つに座った。やがて父より若い男性が一人来て父と向いあって座った。2人はビールを飲みながら談笑している。私は2階へ上がる階段に座って、油で揚げたそら豆を食べていた。からくていくらも食べれなかった。帰りはビールの酔いが汽車を間違えさせて反対の方向へ走っていた。

|