=== 随筆・その他 ===
『あ な た と 共 に』 |
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ローカル線のその汽車は、出勤時間をはずれていたので、席はかなり空いていた。やがて或る小さな駅に列車が停まると西田の乗っている箱にも2、3人がゆっくりと乗り込んで来て、思い思いに席を選んで座った。
機関車に背を向けてかけている西田とは、はすかいのシートに年の頃24、5と思われる女性が座った。列車が動き出すと、誰か見送りにでも来ていたのか女性は右手と顔だけを窓外に出して手に持ったピンクのハンカチをたたんだままあたりを憚るように小さく振っていた。
梅雨あけの候でまだ雲行きは速かったが、かっと照りつける太陽の光で車中にもむっとした熱気が感じられた。
女性の二の腕露わな服装はこの時期にはもう珍しいものではなかったが、むき出た肢体の肉付きの良さが若い西田の注意を一寸とひいて彼は暫く女性に眼を注いでいたのだった。
やがて構内が遠のくと、女性は顔をひっこめた。西田も自分のかけた方の車窓に眼を戻して移りゆく田園の風景を眺めていた。
清水の豊かな小川が時折西田の眼をかすめて、清涼の憩を与えてくれた。除草に働く農家の人々が手を休めて汽車を見送っている。遠方の山脈が田園と異なった紺の緑で西田の眼を慰めてくれた。その西田の耳に車輪の騒音にまぎれた歌声が低く届いて来た。
あなたと共に行きましょう
恋の甘さと切なさを
初めて教えてくれた人
これが私の運命(さだめ)なら
あなたと共に行きましょう
近頃ラジオで耳なれた歌だった。その歌声が何かを訴える様な哀調をおびたものに西田には聞こえた。
(誰だろうか?)
西田は眼を車内に移した。歌声の主はすぐに判った。先程手を振っていた女性が心もち顔を窓外に向けて唇をふるわせている。その唇から西田の気持を沈ませていった歌声は洩れているのだった。
女性は、白いレースの花模様を胸のあたりと裾とにちらした薄緑のドレスを着けていた。そのレースの花模様が女性の面持にそぐわない感じがした。
あなたと共に行きましょう
つらい浮世の浪風に
破れた翼のはぐれ鳥
これが私の運命(さだめ)なら
あなたと共に泣きましょう
無心何(なの)か、何事かを深く心に秘めてか、他人の存在さえ忘れたかの様な歌の響きだった。女性の瞳は潤んでさえいるように西田にはみえた。進行方向をむいて座っている女性に風が吹きつけるせいばかりではなさそうだった。女性の真横には、新しい中型のトランク1個と大きな風呂敷づつみとが置かれていた。その荷物と女性の愁いを含んだ面持とがすべてを語っているように西田には思えた。
愛(いと)しい人と心ならずも別れて、北の山深い農村から未知の都会へでも出掛けて行くのであろうか。その別れのつらさと未来への不安とを、きき覚えの歌に託して、残ったいとしい男へ訴えてでもいるのであろうか。
女心の哀れさを、まざまざと見せつけられたように西田は思った。
西田は、もう女性を見ていることに耐えられなかった。そうしていることが一種の罪悪を犯しているようにさえ思えてきた。
胸中に滲み出る切なさを、歌に託すよりほかに表現出来ない素朴な農村の乙女の心。女心のせん細さはいずこもかわりないものらしく思えた。
女性がのりこんで30分、西田は目的の駅でおりた。プラットホームに足をつけた西田の耳に、女性の歌声が風にのってとどいてきた。
あなたと共に行きましょう
胸に灯ったこのあかり
消さずにだまって抱きしめて
これが本当ののぞみなら
あなたと共に行きましょう

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