=== 新春随筆 ===

昔 の お 正 月


中央区・中央支部
(鮫島病院)

     鮫島  潤
 最近折角のお正月もただのお休み日となってしまって全く味気がない。これが当たり前の世の中だと考えられてしまった。世の中が余りに合理化され過ぎて人の生活に潤いが無くなったのだ。昔を知る我々にとっては残念に思う。昔に還るべくもないが7〜80年前の正月の光景を記して懐かしく昔を思い出してみたい。

 除夜の鐘……その頃私は今の山下小学校の一角に住んでいた。散々苦労した正月準備もやっと済まして家族一同炬燵に入り蜜柑や甘酒等をご馳走になっていた。勿論テレビもラジオも無い。静かな夜だった。正十二時、除夜の鐘がボーン・ボーンと煩悩・百八だけ鳴り始め、余韻を引いて次第に消えてゆく。同時に港に入っている多くの汽船が一斉に汽笛を鳴らすのも聞こえる。千石馬場通りには照国神社への初詣の人々のざわめきが聞こえてくる。港の汽笛が聞こえるほど鹿児島の空は澄んで空気は落ち着いていたのだ。夜空の星が手を出せば届く様に近く明るく見えていた。あの頃の星空に戻ってみたいけれど今ではとても考えられない夢だ。
 母が我々兄妹のお正月の為にちゃんと新しく買い揃えた下駄、下着(メリヤス)、足袋、手袋等をつけ、新調の紋付羽織、袴も付けて、さあ、我々も初詣でに行こうかと家中揃って出掛けるものだった。神社の周りはまるで今の六月燈みたいな混み様だった。時々「おめでとうございます」と互いに挨拶する声が聞こえる。やっと本殿まで辿り付いてお賽銭を弾み神妙に新年の挨拶と今年のお祈りを済ますと初めてお正月が来た、私も歳を取ったと言う事を感じたものだ。時には五社参りまで足を伸ばした事もある。
 すがすがしい気持ちで家に帰ってひと寝入りして、いよいよ正月本番に備えるものだった。子供の頃の思い出は80年経った今でもはっきり思い出して懐かしい。こんな思い出を持てた事が有難い。

 年始回り(名刺配り)……子供の頃の正月行事として欠かせないのが年始回りだった。門松が飾られ注連縄が張られて庭には白砂が振られて落ち着いた清潔な感じがする。家の門から正面玄関に入ると大きな衝立が置かれ、その家の格式を表現していた。その前にいかにも衝立に保護されて居る様に名刺受けが備えてある。非常に上品な赤又は黒の漆塗りで鶴や亀の模様のついた袱紗の敷物が付き、それだけでも正式な挨拶のようだった。玄関で父親の後についてその家の人に「明けましておめでとうございます」と挨拶し、名刺を交換する、それが正式の正月の儀式だった。家の人が居ない時は名刺受けに此方の名刺を入れて辞去する。ところが何軒か廻るうちに父親同士が話し込んでしまい、上がりこんで献杯が始まる事がある。すると我々兄弟は其処から先は父の代理で親族、かねがね世話になっている先輩各位等各家庭を回ることになる。何だか我々は名刺配りの郵便配達人みたいな感じがして親の命とは言え何となく不愉快になるものだった。我々兄弟が中学生ぐらいになると父は初めから我々を名刺配達人に指定していた。その頃から正月行事が何となく形式的になってきた様に思われる。
 今考えるとあほらしい事だったが、その頃は父の命を受けて真面目に名刺配達をして居た。

 南林寺のサーカス……今の地蔵角交番はずっと道路の左側にありあそこは大きな三叉路になっていた(今の道路とは大分違う)。広い馬場を進むと今の松原神社が広くて電報局の方に広がっていた。其処に正月になるとサーカス団が来てそれはそれは賑わった。見上げるような円形大型テントが張られ中に入ると象や熊やライオン、虎などの猛獣、馬、犬などを自由に操って感心するような芸をやらせていた。今は動物虐待だ、猛獣は危険だといって連れてこないそうだ。人間も空中ブランコ、オートバイ曲乗り等子供心を揺さぶる様な際どい芸をして見せ、合い間にはピエロが観衆を笑わせていた。入り口ではジンタの一団の「天然の美」の曲が鳴り響き人の心を惹きつけた。アリタ、キグレサーカス等を覚えている。
 外にズラリと並んだ出店にはアーク燈が特有な匂いを漂わせ、鯛の形をした砂糖菓子を大小様々売っていて(鯛菓子)人間は押し合いへしあい、なかなか前に進めなかった程でそれは賑やかなものだった。小学生の頃は「人攫いがいてサーカスに売り飛ばされるぞ」などと脅されて矢鱈に近づけなかった。地蔵角交番を見ると何時も昔を思い出す。
 80年経っても正月の思い出は昨日の様に鮮明に瞼に浮かんでくる。現在の人にはそれなりのお正月があるだろうが私なりに昔の正月の一部を書いてみた。




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