=== 随筆・その他 ===

草津温泉紀行

中央区・中央支部
(鮫島病院)   鮫島  潤

 私は市医報(H21.第48巻第4号〔通巻566号〕江戸末期の温泉化学)(H13.第40巻第1号〔通巻467号〕 新春随筆・温泉の街:バーデン・バーデン)に温泉について書いたことがある。その時江戸時代の温泉番付に東の大関、草津温泉を挙げていたが、実際見聞して大関の大関らしい所を見たことがある。
 鹿児島を8時に出発すれば東京から上越新幹線にて高崎駅で吾妻線に乗り換え、バスを乗り継いで3時ごろには草津につく。近いと言えば意外に近いものだ。非常に広くて落ち着いた感じ。他所の温泉宿と違い土産店がぎっしり並んでゴミゴミしていなくて全体的にゆったりしたノスタルジックな感じだ。
写真 1(ベルツ館)
写真 2(ベルツとハナ婦人ら)
写真 3(草津温泉のシンボル湯畑)
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写真 4(草津節)
写真 5(湯揉みのショー)
写真 6(湯煙に霞む土産店の灯り)








 時間があったので宿に入る前に念願のベルツ館に行く(写真1)。「ベルツの日記」で草津温泉を世界に広めた大恩人だ。参考資料とハナ婦人の写真が並んでいる。最後に東大の内科教授ベルツと外科教授スクリッパーの胸像が威圧感を持って立っている。江戸末期、宇田川榕庵の影響で温泉に興味があったシーボルトが親交のあったベルツに初めて「草津」を紹介した。三人並んで揃い踏みのようだ、歴史の重さを感ずる。ベルツと草津の硬い結び付きをしみじみと感じた。歴史的には日本武尊、行基、源 頼朝、蓮如からの伝説がある。交通不便にも拘わらず「草津千軒江戸構え」と言う程、栄えて、当時でも年間1万の客が居た。江戸末期後藤艮山、宇田川榕庵等により温泉は湯治の場として民間療法に利用されていたがベルツは医学的に温泉療法としての役目を浸透させて温泉が遊興的な場となるのを防いだ。彼は内務省に「日本温泉論」を提出、宮内省にも「皇国の規範となるべき一大温泉場建設意見書」を出して箱根に各種温泉浴装置を備え、わが国温泉場の模範としようと計画したが思う通りには行かなかったと言う経緯もある。彼は草津にベルツ温泉センターを造っていたが最近草津町制100周年記念事業として全く新しく最新の設備を持った大規模の町営ベルツセンターに改装したという。冬期は草津温泉国際スキー場からのスキー客で賑わうそうだ。実はベルツ自身「草津」を気に入って温泉保養地を目指し広大な土地を購入し彼の理想を果たそうとしたが、外人には土地を売らぬという地元の人の反対にあって計画は挫折した。理想の温泉郷を夢見た彼の大望は明治中期に及んで国民の閉鎖性と無知により日本に温泉医学が根付く機会は失われたのである。箱根・草津ともに理想郷の実現に失敗したベルツは失意のうちにハナ婦人と共に日本を去ったのである(写真2)。その他に彼は温泉の従業員の皹皸(ひびあかぎれ)の為に温泉水とグリセリンから「ベルツ水」を処方し皸の他、化粧水にも流行した。私もこれが大分後まで婦人方に愛用された事を記憶して居る。
 足を伸ばして賽の河原に行く、遊歩道が整備され、何処の温泉にもありふれた温泉の湯気と硫黄の香りだ。草津の名の由来はこの匂いを臭い水(くそうず)といった所から訛ったものという説がある。その入り口に「片岡鶴太郎記念館」がある。彼の特有な顔で創作等に熱中する姿はテレビでよく見てその見事な力強い筆捌きに感心するものだった。二階の天井から階下の吹き抜けまで吊した墨絵の大作の列には圧倒される。そんな大作も有れば、葉書大の意味深い作品もある。それに塑像も陶芸の力作も並べられていてふらりと入ってそのまま出て行くには誠に惜しい感じだったが心を残してそこを去る。
 宿は賽の河原に近かった。凄く大きな湯源を取り巻くロータリーを廻って温泉街特有の細い道を登り下りして裏手が正面玄関になっている。宿は300年の歴史を持つ所謂老舗で安心出来た。部屋に案内されて一安心、と言うのは窓の直ぐ下に大規模な草津湯源が見え、温泉街の灯りも見渡せると言う絶好の場所だった。こんな部屋はこのホテルに25室しかないそうだ。若し反対側の部屋だったらただの温泉宿に過ぎないのだった、大いに感謝する。
 夕食まで間があるので散歩に出掛ける。草津温泉の湯源は白根山の硫黄鉱山によると言われ、1分間に27,000リットル沸くという。壮大な物だ。ベルツも是には驚いただろう。泉質は酸性泉、硫黄泉、アルミニユウム。温度は54度。Ph2.05酸性が高いため下流のダムでは酸性中和施設がある。効能は皮膚病、神経痛、糖尿病、恋の病その他なんでも効く。泉源には緑色の湯垢が見られるがこれは「イデユコゴメ」と言う藻で光合成をして生物学的に興味深いと言われる。
 幾つかの樋(湯の花採取)を通って100メートルぐらい先は大きな滝になって轟音と湯煙が凄く(写真3)、しかも温度が高く硫黄の匂いも強い。ベルツはドイツの(バーデン、バーデン)(カルルス・バード)より遥かに大規模だと言っている。それに「草津」には深山の空気と新鮮な飲料水が豊富だと感心している。一般に欧州では良好な飲料水には不自由して居る。バーデン・バーデンには私も行ったことがあるが、成る程「草津」は桁違いに凄いと思う。
 次に「草津よいとこ、一度はおいで」で有名な湯揉みに行く(写真4)。昔は時間湯と言って凄く熱い湯(40度〜50度)に湯長の指図号令で準備運動、掛け湯の後、約3分間入浴するという一種の荒行だったそうだ、ベルツはこの揉み湯を「熱水治療論」としてドイツの「ベルリン臨床医学」に発表した。恋の病ならずとも「万病少なくとも快方に向かう」と記載して居る。是が本邦の温泉治療を世界に海外に発表した最初の例である。他に「日本鉱泉論」を出して温泉の科学的関心を起こしている。彼は湯揉みを見てこんな粗末な建物の中の昔からの行事に驚いた。その荒行は現在でも残って居るというが此の頃は「草津節」で客を集めて見せるショウになっている。正面に舞台があって周りの一階、二階が観客席になっており客はぎっしり詰まっている。その下に広い教室位の湯船があり正面に石の地蔵さんが祭ってある。その周りに湯板を持った絣模様の着物の女性が二十人ぐらい並んで声を合わせて「草津節」を謳いながら熱い湯を揉んで温度を下げようとする。時にはお客さんに板を持たせるが意外に重いらしい、客はもたもたして居た。一行程に約30分ぐらいは掛かっただろう(写真5)。
 ホテルの部屋に帰って泉源の湯煙に霞む周囲の特異な温泉土産店の灯りを眺める事だった(写真6)。何処の温泉にもない情緒が面白かった。寝る前に宿の温泉を探して行ったが、長い廊下をあちらこちら曲がってエレベーターを乗り換えて行く、どこでも増築のホテルに良くある光景だ。廊下には曰くありげな骨董品の展示物が並んでいるのも歴史の古い温泉宿らしい風景だった。流石に湯船は広く大きく熱い湯がとうとうと流れていて世に言う「温泉偽装問題」など考えられない勢いで、安心して充分温まる事だった。中越大地震の時は此処の湯を陸上自衛隊がタンク車で被災地に送って大変喜ばれたのはご存知の通りだ。ゆったり浴びて部屋に帰りライトアップされた湯煙の夜景を楽しみながら晩酌して一夜を愉しんだ。
 ゆっくり堪能して帰りは「新宿」直行高速バスを利用して途中伊香保温泉経由にしたが(伊香保は別荘地らしくて余り印象に残っていない)、今では大きな問題になっている八ッ場ダム建設工事場を通ったが当時から相当大きな工事だと感じた。総じて「草津温泉」はさすがに東の大関だと感じた。その時代に霧島は西の関脇だったらしい。草津温泉は一見の価値がある。
 最後に一言:滋賀県に「草津市」があり戸惑う人もあると言うが此方は温泉とは関係が無いそうだ、私も今まで不思議に思って居た。

江戸温泉物語り 松田忠徳(ドイツ人ベルツ)週刊新潮48-4
草津温泉 白倉卓夫(編)草津温泉研究会
江戸の温泉学 松田忠徳 新潮選書
 


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